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画像出所=http://ihouse.bz/archives/304
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!我が国では1〜10までの数字を数えるとき、
昔ながらの「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、ここ、とぉ」
という言い方と、
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご、ろく、なな、はち、くぅ、じゅう」という言い方があります。
これらを「数(かぞ)え詞(う)ことば」、「数詞(すうし)」といいます。
江戸時代でもそろばんなどでも明らかなように、算術に使うときは「いち、にぃ、さん、し・・・」の方を用います。
昔も今も「1+2」を、「ひぃたすみぃ」とは言いません。「いちたすに」です。
にもかかわらず、ほんの少し前までの日本では、小学校にあがる前の子どもたちに数を教えるときは「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という数え方を教えました。
算術では「いちたすに」なのに、どうして「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という言い方を教えたのでしょうか。
実はそこに深い意味があるのです。
このことは、以前にも拙ブログに書いていることですが、あらためて考察してみようと思います。
日本は3.8万年前には新石器を用い、葦舟を使って外洋航海をしていた、世界最古の海洋民族国家です。
なんの加工もしていないただの自然石を道具として用いたのが旧石器時代、石を人が使いやすいように加工して用いるようになったのが新石器時代で、これを新石器と言います。
西方で磨製石器が用いられるようになったのは、いまからおよそ7千年前の古代シュメールです。
ところが日本では、それよりも3万年も古い時代に、すでに磨製石器を用い、しかも葦舟を用いて外洋航海まで実現しています。
我が国で磨製石器が最初に発見されたのは昭和21年で、群馬県の岩宿遺跡からおよそ3万年前の磨製石器が発掘され、その後の調査で、さらにその下層から、およそ3万5千年前の磨製石器が発掘され、さらに沼津と長野の遺跡から神津島でしか産出しない黒曜石の3.8万年前の打製石器が発掘されました。
いまでは秋田から奄美群島まで全国135箇所から400点余の新石器が出土しています。
いずれも3〜4万年前のものです。
このことについて、英国のJ・ラボックという考古学者は、
「日本列島の住民は世界に
先駆けること二万数千~三万年前に
新石器時代を迎えていた。」
と述べています。
世界の磨製石器の出現は、紀元前9千年~7千年頃に出現しますが、突出して早い時期に出現したものとして、
シベリアの2万年前のもの
ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの
など数例があります。
ところがこれらは異常に早過ぎる磨製石器であり、作成経緯等が研究されているのですけれど、すべて不明とされています。
磨製石器の出現は、その石器を使っていた人々が、それ以前にどのような石器を用い、またその後にどのように文明を形成していったのか、つまり文明の連続性が問題視されるのですが、その前後の経緯がそれらの遺跡ではまったく不明なのです。
ということは、それらの遺跡の出土品は、どこからか「持ち込まれた石器」と考えざるを得ないのです。
ところが日本では、11万年前の石器、3万8千年前の新石器、1万6500年前の土器、その後の縄文式土器の変遷へと、歴史がちゃんと連続しています。
なかでも長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点、および沼津で発掘された3.8万年前の磨製石器は、いずれも伊豆諸島の神津島から運ばれてきた石材を用いていることが確認されています。
万年の単位で歴史を考えるときには、海面の高さがいまよりも140メートルも低く、いま大陸棚を形成しているところが、かつては陸地だったりもしたのですが、伊豆半島から神津島までは、水深が深いため、神津島が本州と陸続きになったことはありません。
つまり3.8万年前に日本列島に住んでいた私達の祖先は、そんな途方もない大昔に伊豆半島と神津島を往復して、しかも石を運んでくるということができるだけの船と航海術をすでに持っていたということです。
これまた、実にすごいことです。
ちなみに縄文時代の船としては、全国で約160艘がこれまでに発見されていますが、それらはいずれも丸木舟であるといわれています。
いずれも木を焦がして中を削ってくり抜いて船にしたものとされていますが、これを行うには、たいへんな時間と労力を必要とします。
しかも丸木舟では安定が悪く、外洋航海に耐えることができません。
ところが日本列島には、そこいらじゅうに葦が生えているわけです。
葦は水に浮き、細くて加工も楽です。
3万年とか4万年いう歳月は、途方もない歳月です。
ではなぜ新石器が人類史を語る上で重要かと言うと、旧石器であれば、自然石をそのまま使っているだけですから、人は少数の家族だけで生活できるわけです。
ところがまだ鉄や機械がなかった時代に硬い石を加工しようとすれば専業の職人が必要になります。
硬い石の加工には、専業の誰かが、何ヶ月もかけて石を削ったり、磨いたりしなければならないからです。
人は食べなければ生きていくことができませんから、(食糧生産をしない)専業者を養うためには、人々が集落である「むら」を形成し、一定以上の人々が集まって、食料を採る人、それを加工する人、石を磨いて道具にする人というように、「むら」の中で職業の分担をする必要が生まれます。
さらにそうした「むら」を維持するためには、なぜ自分たちがそこで「むら」を形成しているのかという、「むら」ごとの神話が必要になります。
なぜなら、一族が統一された目的を持って社会を維持する必要があるからです。
このため世界の諸族がもつ神話は、磨製石器登場の時代に形成されたとされます。
つまり人類が社会を形成したことが、磨製石器と神話によって証明されるわけです。
これが世界の考古学会の常識です。
ちなみに日本の文化庁は、近年、縄文時代以前を「旧石器時代」と呼ぶように制度を改めました。
ですから文化庁の指導によれば、新石器の時代も「旧石器」だという、世界の中で日本だけがやや異なる用語の用い方をしています。
理由としては、英語では旧石器、新石器時代は、それぞれ「パレオリティック(Paleolithic) , ネオリティック(Neolithic)」で、日本語の旧石器と必ずしも同じ定義である必要はないということのようですが、おかしな話です。
猿の集団がそうなのですが、だいたい50頭くらいの集団なら、「アーウー」とか「キッキキー」といった擬態語だけでおよその意思疎通はできてしまうのだそうです。
ところが集団が150名を超えるようになると、集団内で社会的分業が始まり、互いの意思疎通のために言語が発達するようになるといわれています。
男性は狩りのために村を長期間留守にしたりしますが、そうなると村に残った女性たちにとっては、夫の浮気が一番の気がかりで、そのため特に情報交換のための言語中枢が発達したのだとか。
いまでも口喧嘩で、女房に旦那が勝てないのは、人類誕生以来の歴史が土台になっているわけです(笑)。
さて、集団組成のための神話が発達するようになると、集団の規模は食料をもたらすことができる範囲で、次第に大きなものとなっていきます。
こうして人々が生活する「ムラ」が生まれます。
ムラの向こうにはお腹を満たすための「ハラ」があり、その向こうには「ウミ」と「ヤマ」があります。
「ウミ」や「ヤマ」の向こうには、また別な「ムラ」があります。
近親婚による異常を防ぐためには、そうした離れた「ムラ」から「良(よ)い女(め)」を娶(めと)る必要があります。
だから「ヨメ」と言います。
「ムラ」の中には、親子などが住む「イエ」があります。
「イエ」には「ヨメ」と「コ」がいます。
「ヨメ」や「コ」を養うために、「ア(吾)」は「ト(外)」に出て狩りや漁をします。
だから父のことを「トト」と言います。
また「ムラ」には、すでに亡くなったご先祖がいます。
ご先祖は「ムラ」に力を与えてくれる「ミ(存在)ですから、「カミ」と言います。
こうして日本語が形成されていくわけですが、尊敬するご先祖である「カミ」と交信するために、人々は鹿の骨や亀の甲羅(こうら)を焼いて占いをすることで、「カミ」からのメッセージを得ようとしました。
これが東洋社会で広く行われてきた「鹿骨占い」で、これを「ウケヒ」と言います。
「ヒ」は霊(ひ)のことですから、カミからのメッセージを受けることが「ウケヒ(受け霊)」です。
「鹿骨占い」は、鹿の骨を焼いてできたひび割れパターンで、神託を得るものです。
ひび割れは、縦の一本割れから、二本割れ、ギザギザ割れ、穴が開くもの等々、様々な形になります。
私達の祖先は、それらを47種類にパターン分けし、それぞれに47音の音を当てることで名前を付けました。
その名前が、「あいうえお」の母音と、「かきくけこ、さしすせそ」といった母音+子音による音となり、その一音ごとにひび割れのパターンが当てられ、それが次第に記号化して、これが文字になりました。
これが、いわゆる「神代文字(かみよもじ、じんだいもじ)のはじまりです。
ただし、「/」や「\」といった記号だけでは、その意味がわかりません。
そのために、一音ごとの意味を解説するための記号も開発されました。
それがホツマ文字やカタカムナなどの記号文字です。
神代文字に、ひび割れのパターンそのものを示すような文字と、一音ごとの意味がわかるように作られた文字の二種類があるのはこのためです。
なかでも大切な音は、そのままものを数えるときに使う数詞にすることで、誰もが共通する文化にまで育てています。
それが「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」の数詞です。
ですから昔は「ひふみ」といえば、そのまま神様のお言葉とさえも言われたわけで、こうしたものが日本では、もしかすると3万8千年前にまでさかのぼることができる古代の知恵であったのかもしれません。
では、その「ひふみよ・・」はどのような意味を持っているのかと言うと、さすがにこれは、4万年違い古くて歴史があるだけに諸説あります。
たとえば「ひふみ」は、それぞれ火・風・水を意味するという説もありますし、「ひ」は太陽だという説もありますし、あるいは根源のことという説、開くことを意味するという説、どれもそれぞれに歴史があり、説得力があります。
そうしたなかで私なりに納得できた意味が次のものです。
「ひ」 霊(ひ)のことです。
「ふ」 生(ふ)のことです。霊(ひ)から生命が誕生します。
「み」 身(み)誕生するのが「身」です。
「よ」 世(よ)身が織りなす世です。
「い」 意(い)人の意思や心です。
「む」 無(む)無心になることで霊(ひ)を自覚します。
「な」 菜(な)肉体は食で養います。
「や」 家(や)住まいです。
「こ」 子(こ)子供たちです。
「と」 戸(と)戸がひらきます。
昔は子供が2歳か3歳くらいになると、たとえばお風呂から出るときに、お父さんに「十数えたら上がって良いよ」などと言われて、子どもたちは熱心に指を折りながら「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、やぁ・・・」と数えたわけです。
そして氏神様に参拝に行くと、そこで二礼二拍手一礼をして、神様にご挨拶をします。
そのとき、二拍するとき、はじめに両手を合わせ、右手をちょっとだけ(左手の第一関節くらいまで)引きます。
なぜそうするのかというと、何事も「ひ(霊)」が上、「み(身)」が下だからです。
そして神様と対話するのは、肉体である「み(身)」ではなく、自分の「ひ(霊)」です。
だから両手を合わすときも、「み(身)」をちょっと引きます。
二泊手したあとには、元通りに両手の指先を合わせます。
ご祈念が終わったら「ひ」と「み」を元通りに合わせておかないと、体と魂が別々になってしまったままになるからです。
「ひ」と「み」の関係がわかると、なぜ左大臣と右大臣なら左大臣が上なのかもわかります。
やはり「ひ」と「み」の関係だからです。
明治のはじめに、太政官を右院、左院、正院が置かれましたが、これなども「ひ」と「み」の関係がわかると、その趣旨が普通に理解できます。
つまり、「ひ」と「み」の関係は、我が国古来の文化なのです。
このように、日本語の47音(50音とも言いますが、わ行が3文字欠けますので実際には47音になります)には、それぞれに意味があります。
せっかくですので、「と」のあとを記すと次のようになります。
「ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」
これが大祓詞(おほはらいことば)の「ひふみ祝詞(のりと)」で、限りない神の弥栄を言い表したものといわれています。
ちなみに「も」以下は次のようになります。
「も」 百(も)
「ち」 千(ち)
「ろ」 萬(ろ)よろずとも言います。
「ら」 億(ら)
「ね」 兆(ね)
「し」以下はご興味あったらご自身でお調べいただければと思います。
要するに、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」という数詞は、それがそのまま祓詞(はらいことば)になっていることに加え、すくなくとも1〜10までを知ることで、そのまま日本文化の奥底を知ることになるわけです。
これを物覚えの良い幼いうちに魂に叩き込む。
そのために幼な子に、計算用の「いち、にぃ、さん」とは別に、というより先に、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」と教えたのです。
最近、よく思うのですが、たいせつなことは、ほんの身近なところにあります。
戦後75年、いやもしかすると西洋のものをひたすらありがたがるようになった文明開化の明治時代以降、我が国古来の様々な文化が失われていきました。
いま残っているのは、もしかするとそうした古代から続く日本人の智慧の切片(せっぺん)と言えるようなものです。
そうしたジグソーパズルの切片を、丁寧に拾い集めてみると、そこに日本の古代の様々な知恵が浮かび上がる。
そしてそこには、我々が普段思っているより何十倍も深い知識や智慧を見出すことができます。
我が国の天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)は、天照大御神が孫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に与えられた御神勅です。
意訳するとそこには次のように述べられています。
「豊かに葦(あし)の原が広がる豊かな瑞穂(みずほ)の国は、
わが子孫(すめみま)が王(あるじ)となる地(くに)です。
我が孫よ、行って治(しら)しめなさい。
しあわせになりなさい。
皆が宝のように幸いを得て隆(さか)えることは
まさに天地と共に永遠となりましょう」
我が国は、天皇という国家最高権威が、民衆を「おほみたから」とする国です。
我が国が民衆をこそ大切な「たから」とする限り、我が国は未来永劫、栄えることができるということが、天壌無窮の神勅の根幹となる意味です。
21世紀は、民衆の世紀と呼ばれています。
そしていま世界は、限られたごく一部のウルトラ・リッチな人々が、民衆をプアーのままにして、お金の分け前を与えてあげる代わりに言うことを聞け、聞かなければ殺害など、あらゆる迷惑を被るぞ、という
「カネのために行う、カネと暴力による支配」の時代から、
「民衆が戦士」として立ち上がる時代へと変化しようとしています。
まさに天壌無窮の神勅が、世界へと大きく広がることを意味しているといえるのかもしれません。
楽しみな時代がやってこようとしています。
そしてその楽しみを、確固たるものにしていくためには、我々日本人が、そして日本が、しっかりと自立した国になっていくことが望まれます。
破壊者は、各自をバラバラに分断し、各自が孤立無援となっているかのように演出します。
しかしそれは「みせかけ」です。
民衆の幸せこそが人類の願いという思いを共有している人たちは、日本のみならず世界中にいます。
そして民衆の幸せこそが人類の願いという思いを実現するための智慧と知識と経験は、間違いなく日本にあります。
私達があらためて日本に誇りを持つこと。
それは人類社会の希望であり、戦士である個人、ひとりひとりの希望です。
※この記事は2018年12月の記事のリニューアルです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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