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画像出所=https://www.touken-world.jp/tips/7145/
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!12月24日に発売された新刊の
『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』から、桶狭間の戦いをご紹介したいと思います。
本文のごく一部です。
お読みいただくとわかりますが、従来の信長や今川義元の解釈と、まったく違ったストーリーになっていると思います。
個々の事実が、いつどこで誰がどうしてどうなったという5W1Hは、社会科の中の歴史分野です。
社会科というのは、社会人になったとき必要な最低限の一般常識を学ぶものです。
歴史学は、過去の事実を時系列に沿ってストーリー化したもののことをいいます。
もちろんストーリーは、あくまで史実に則ったものでなければなりません。
これがフィクションに基づくと、ただのファンタジーになってしまいます。
ノンフィクションと歴史学の違いは、想像力を主にするか、どこまでも論理性を重んじて考察するかであり、前者は小説、後者が歴史学です。
ではなぜ過去の事実をストーリー化するのかといえば、人間は箇条書きのような単なる事実の羅列では、物事を記憶できないからです。
そこにストーリーがあることによって、感情が動き、自分自身が過去の歴史の当事者のひとりとなって、その場にいて、同じ体験をすることができる。
こうした経験を繰り返し積むことによって、同じ歴史を共有する人々が生まれていきます。
それが、同じ民族としてのアイデンティティとなります。
では本文です。
***
永禄三年(一五六〇年)五月、今川義元が尾張国へ侵攻してきました。
対する織田の軍勢はわずか数千。
今川は先鋒に三河の松平元康(後の家康)を立てて、織田方の城を次々と落としていきました。
清州城にあった信長のもとに、家臣らが集まって軍議が重ねられました。
ここは断固戦うべきか、降参して今川の軍門に降るべきか。
戦うならどのように戦うか、降るなら誰を軍使に出すか等々、議論すべきことは山積みでした。
家中の意見が分かれる中、
「殿、ご決断を!」
と迫られた信長は、愚にもつかない雑談をするばかりでした。
「殿はわかっておいでなのか!」と腹を立てた家臣らは、このとき
「運の末には知恵の鏡も曇る」と嘆いたと『信長公記』は伝えています。
決断のない殿の前で、そのうち家臣たちは、
「とりあえずは清州城で籠城しよう」という議論に傾斜していきました。
すると信長は突然小姓衆に
「鼓を持て!」
と言ったかと思うと、立ち上がって幸若舞の『敦盛』を、朗々と歌いながら舞い始めました。
人間五十年 化天(げてん)のうちを比(くら)ぶれば
夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり
一度(ひとたび)生(しょう)を享(う)け
滅せぬもののあるべきか
「敦盛」という謡曲は、源平合戦の折りの一ノ谷の合戦で、平清盛の甥で若干十六歳の平敦盛が、退却に際して青葉の笛の「小竹」を持ち出し忘れたことに気付き、これを取りに戻ったところを源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められて一騎打ちを挑まれる。
逃げようとする敦盛に熊谷直実は「兵に命じて矢を放つ」と威迫(いはく)し、雑兵に矢を射られて死ぬくらいならと敦盛が一騎討ちに応じます。
けれど百戦錬磨の直実に、熱盛はあっという間に組み伏せられて頸(くび)を刎ねられてしったという物語です。
そして「敦盛」が象徴していることは、
「武士であれば、
たとえ負けるとわかっていても
堂々と戦って死ななければならない」
という武士の覚悟です。
敦盛は死んでいきましたが、その勇気は、ずっと後世にまで語り継がれている。
武士というのはそう生きるものである、という教えが、この幸若舞のテーマです。
*
目の前で敦盛を舞う信長に、家臣一同は、信長の並々ならぬ決意を見て取ります。
父の信秀様は尊敬に値する偉大な殿様であった。
けれどセガレの信長様は「うつけ者」と思っていた。
けれど信長様のこれまでの行動を振り返ってみれば、またたく間に父殿のなしえなかった尾張の統一を行っています。織田は弾正忠の家柄です。
もしかすると尾張統一のために、信長様はあえて「大うつけ」を演じていたのかもしれない。
いまこうして信長様は、幸若舞の「敦盛」を舞って今川との断固とした戦いを決意していらっしゃる。
そうだ。俺たちは弾正忠の家臣だ。
正義のために、尾張を護るために、
よおし!戦うぞ、やるぞ!
舞う信長の姿に、家臣一同の決意は固まります。
舞を舞い終えた信長は、小姓五騎だけ連れて、熱田神宮に駆けて行きました。
いま熱田に向かうのは、今川との戦勝祈願に違いない。
「一同、軍装の上、熱田に向かわれよ!」
誰かが声をかけました。
「おーっ!」と一同の喚声が上がる。
そして全員が鎧兜に身を固め、熱田神宮へと向かいました。
全員揃ったことを見届けた信長は、一同とともに熱田神宮での参拝を済ませると、いったん善照寺の砦に移動しました。
途中で、後からやってきた軍勢が加わり、到着したときには、およそ二千の軍勢となっていました。
その信長のもとに、今川の先鋒の松平元康殿の猛攻を受けた丸根砦の佐久間盛重が、兵五百とともに城外に討って出て、白兵戦の中、全員討死の報がもたらされます。
継いで鷲津砦で篭城戦を試みた飯尾定宗、織田秀敏の討死の報。
現在、今川義元の本隊が沓掛城を出発して、大高城方面から南へと進路を取ったとの知らせが入ります。
そして正午になる頃、
「信長出陣の報に喜んだ佐々政次、千秋四郎ら三十余りが、
中嶋砦から桶狭間の今川本陣を急襲。
全員討死。
敵の大将今川義元は、丸根、鷲津両砦の陥落に加えてのこの勝利に悦び、
軍を停めて昼食を取らせながら、
上機嫌で陣中で謡いをしている」
との報告が入ります。
これで今川義元の居場所がわかった。
その今川の軍勢は、縦に長く、横腹が空いています。
勝機!
信長は全軍に出発を命じます。
山中を桶狭間に向かう信長の軍勢に、十三時頃、雹の混じった猛烈な雨が降り注ぎました。
この雨は信長方の進軍の音を消し、昼食後の今川の軍勢の足止めをする雨となりました。
信長一行が桶狭間の高台に到着します。眼下に今川の本陣。
今川義元の姿も見えます。
雨もすっかり上がりました。
信長は、軍配を振り上げると、サッとそれを振り下ろしました。
全軍突撃の合図です。
信長の軍が今川義元の本陣に襲いかかりました。
突然の急襲に、今川義元の軍勢は浮足立ち、信長の軍は今川の前衛軍を打ち破ると、さらに奥の本陣へと進んで行きました。
状況不利とみた今川義元は、三百騎の旗本衆に身を守られて後方へと逃げ出しました。
これを追う信長軍。
乱戦のなか、ついに信長の家臣、服部一忠が今川義元に一番槍をつけました。
けれど今川義元も、もとは源氏の血筋の剛の者です。
服部一忠の槍に刀で立ち向かい、見事服部一忠の膝を斬り割きました。
そして今川義元が、倒れる一忠に止めを刺そうと斬りかかろうとした瞬間、その横腹に信長の家臣の毛利新介が組み付きました。
そして今川義元と一緒に地面に転がった毛利新介は、今川義元よりも一寸速く起き上がると、今川義元に馬乗りになり、鎧の上から今川義元の喉を刺し貫こうと、左手で義元の首を押さえました。
そうはさせじと義元は毛利新助の左手の小指を噛み切る。
毛利新介は、左手の激痛をものともせず、そのまま今川義元の首を上から掻き斬りました。
そして今川義元の首を高々と掲げると、
「今川義元、毛利新助、これを討ち取ったり〜!」
と声を限りに叫びました。
大将を失った今川の軍勢は総崩れとなり、潰走しました。
この戦いで今川方は二七五三人が討ち取られました。
信長方も半数の九九〇人が命を失いました。
兵の半数を失ったのです。
潰走する今川の軍勢を追撃するだけの力は、残っていません。
信長は退却を命じ、信長の軍は清州城へと引き上げました。
「桶狭間で、弾正忠の織田信長が、あの今川義元を倒した」
このニュースは、またたく間に全国へと広がりました。
もともと今川義元は守護大名でしたが、力の増大とともに中央と決別して戦国大名を自称していました。
その実力から「海道一の弓取り」とも言われていました。
当時としては、いわば力の象徴のような人物を、圧倒的に非力と思われた尾張の織田が討った。
しかもその織田氏は、律令以来、正義を貫く弾正忠の家柄にある。
正義が力を打ち破った。
このニュースは、戦国の世を憂う全国の有志の武士たちに、たちまちのうちに広がって行きました。
戦国の世とはいえ、ここは日本です。
武士には高い教養があります。
日本は決して中国のような群雄割拠の国ではない。
もともと朝廷を中心にひとつにまとまっていた国であり、争うよりも互いに協力して平和な暮らしを打ち立てていこうとするのが日本の心得です。
そして武士とはそういう人々を護り支える存在であるということが武士の道であったし、戦国の世を終わらせ泰平の世を築きたい、そのために自分の人生を使いたいと思う有志の武士は、そんな時代であっても全国に多数いたのです。
そしてそういう武士たちは、同じ生きるなら、弾正忠として正義を貫く信長のもとで働きたいと願い、信長のもとに集ってくるのでした。
以下続く
***
きっと、下手な小説を読むよりも、はるかにおもしろい追体験ができる本になっているのではと思います。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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