瀬名姫



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瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
戦国の世では、妻子は人質です。
ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。
みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
なんとかして娘の命を助けたい。
なんとかして、孫の命を助けたい。
そのように考えるのではないでしょうか。

NHK大河ドラマ『どうする家康』で瀬名姫を演じる有村架純さんと、西来院所蔵の瀬名姫の肖像
瀬名姫
画像出所=https://twitter.com/hochi_enta/status/1611091175230042113?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1611091175230042113%7Ctwgr%5E300950c3a322aa9d28017fa655ad75e290ba7788%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fasa-dora.com%2F10689%2F
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今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」の第一回が先日放送されました。
歴史大河ドラマというより、エンタメとして作っている番組であって、家康をいわゆる大物として描くのではなく、普通の人の感覚で描こうとしたというコンセプトはよくわかるのですが、相変わらず日本の風景が緑のない半島の風景のようであったり、村の家がまるっきり半島式のボロ家であったりと、これはシナリオというよりもプロデューサーの趣味としかいいようのない残念な描写も多々見受けられました。
継続して観たいかというと、答えはNOです。

ただ、救いは、今川義元に野村萬斎さんを起用して、それなりの貫禄を出したこと、それと家康の正妻となる瀬名姫が、たいへん心音の良い美しい女性として描かれていることでした。
近年の家康ものの多くが、これはドラマに限らず小説でもそうなのですが、瀬名姫をとんでもない悪女として描くものが多く、なかには「瀬名姫はもともとは今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』として押し付けられた」などいう暴論まで出る始末であったことを考えると、歴史の視点が、多少なりともまともになったことは、良いことであろうと思います。

ちなみに瀬名姫は今川義元の姪(父の兄弟の子)であって、今川義元はそんな娘に手を出すほど餓えてなどいません。今川義元は日本人であり、当時にあって人の上に立つ実力者なのです。
すこしは常識を働かせて考えていただきたいものと思っていたので、ここは共感でした。

そもそも、瀬名姫は、美しく、教養の高い、今川の娘です。
家康は、桶狭間のあと、信長の理想に共鳴し、結果として今川を裏切った形になりました。
戦国の世では、妻子は人質です。
ですから家康が今川を裏切ったとなれば、駿府に留め置かれた妻子が斬首となるのが、戦国の習いです。
けれど瀬名姫の両親は、今川義元の兄弟です。
しかもこのとき家康と瀬名姫との間には、まだ幼児の長男の信康がおり、お腹には長女の亀姫がありました。

みなさんが、そんな瀬名姫の親であったら、どのようにするでしょう。
なんとかして娘の命を助けたい。
なんとかして、孫の命を助けたい。
そのように考えるのではないでしょうか。

このときの瀬名姫の両親もそうでした。
だから両親は、瀬名姫母子の助命と引き換えに、自らの命を絶っています。

けれど、そんなことになってしまった瀬名姫は、どうしたら良いのでしょう。
これまた自分がその当事者となってお考えいただきたいことです。
自分の夫の判断で、自分の両親が自害したのです。
夫のことは愛している。
我が子は可愛い。
けれど、瀬名姫はどうしたら良いのでしょう。

歴史は、ストーリーです。
ですから、どうしてどうなったという筋を学ぶ学問です。
そして歴史を学ぶとは、まさにそのストーリーから、「自分ならどうする」を考えることです。
これは歴史上、実際にあった事件です。
当事者の気持ちになって考えていただきたいのです。

NHKの番組の描写が、この後どのようになっていくのかはわかりません。
以下に先日刊行した拙著『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』に、瀬名姫のことを書いていますので、一部転載したいと思います。
ちなみにこの本、自分の中ではこれまでの本の中の最高傑作です。

 ***

 築山御前は、徳川家康の、ただひとりの正妻です。けれど理由あって非業の死を遂げた築山御前を、晩年の家康は、
「あのとき築山殿を、女なのだから尼にして逃してやればよかった。命まで奪うことはなかった」と、生涯悔やみ続けました。
さらにいえば、実力大名となった家康のもとには、全国の諸大名から天下の美女たちが次々と献上されてきましたが、家康はそれら美女たちに、いっさい手を付けませんでした。
とはいえ、武家のならいで、跡取りの男子を産まなければなりません。
ですから家康は女性との交渉は持ちましたが、相手にするのはもっぱら領内の農家の、あまり美女とはいえない、しかも後家さんたちばかりであったと伝えられています。
ある人が「家康殿は不思議な趣味をお持ちですなあ」と聞いたそうです。
すると家康は、
「美女を相手にすれば築山殿が悲しむ」と答えたそうです。
家康は、十代で結婚し、その後にみずからの手で死なせることになった非業の妻を、生涯、愛し続けていたのです。

 築山御前は、古来、毒婦と言われ続けてきました。曰く、
「生得無数の悪質にして嫉妬深き御人」(十八世紀に成立した『柳営婦女伝系』)
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(江戸中期の『武徳編年集成』)
「唐人医師の減敬と密通し、凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)。
といった具合です。
近年でも家康のことを描いた小説等では、その多くが築山御前を悪女 として描いています。
ひどいものになると、どの本とは言いませんが、
「築山御前はもともと今川義元のお手付きで、当時人質だった竹千代に、使い捨ての『お古』を押しつけたのだ」などと書いているものもあります。
申し訳ないけれど、築山御前は、今川義元の姪っ 子です。
しかも今川義元は当時の世にあって、抜群の経済力を誇った男です。
身内に手な ど出さなくても、女性に不自由は全くない。歴史上の人物を、日本人を、バカにするなと言いたくなります。

築山御前が家康と結婚したのは、まだ家康が駿河の今川家に人質に出されているのことです。
十六歳になった竹千代(家康の幼名)は、元服して松平元康と改名し、築山御前と結婚しました。
築山御前の年齢はわかっていません。
同年代だったという説もあり、かなり年上だったという説もあります。
また、この頃の築山御前は、瀬名姫と呼ばれていました。瀬名という名は住んでいた地名から付けられた通称です。
本名は伝わっていません。

瀬名姫はみやびな都 風を愛する今川一門の娘であり、美人で、頭もよく、立ち振る舞いも優雅で気品がありました。
それはまるで日本人形が生命を持ったかのような美しさであったともいいます。
十代の家康にとって、瀬名姫は初恋の相手であったし、はじめての女性であったし、夢中になる妻でした。
こうなることは、三河を領有して味方に付けた今川一門にとって、とても満足なことであったし、瀬名の両親も、人柄の良い家康との婚姻をとても喜んでくれたし、二人の結婚生活は、家康にとっても瀬名にとっても、夢のような幸せな日々であったといえます。

 そんな幸せに転機が訪れたのが一五六〇年の桶狭間の戦いです。
領主の今川義元が織田信長に討たれたのです。
桶狭間の戦いのあと、家康は三河の岡崎城に向かい、城から今川が派遣した城代を追い出すと、そのまま三河を占領しました。
占領と書きましたが、元々岡崎城は松平の持ち城です。
つまり家康は三河を取り戻したわけです。家康の松平家は、もとも三河の領主だったし、そもそも家康が駿河にあったのは、人質としてのことです。
つまり家康は、桶狭間のあと、元の鞘に収まったのです。
そして家康は、三河の安全保障のために、隣国の織田と同盟を結びました。一五六二年、家康二十歳のときのことです。

 ところがこのことは、家康の妻である瀬名姫にとっては一大事です。
家康が今川を裏切った格好になったからです。
このことは今川の家中で大問題になったし、今川義元の後継の今川氏真も激怒しました。
この時点で瀬名姫の身は駿河にあります。人質として留め置かれているのです。
このままでは、瀬名姫は今川によって捕縛され、打首になって、その首が河原に晒されるところです。
娘の打首を防ぎ、娘の命を長らえさせようと、瀬名姫の父母は、ともに自害しました。
他に愛する娘の命を助ける手段はなかったのです。

  瀬名は松平に嫁いだ娘です。
今はもう松平の家の人間です。
けれど、そうはいっても、夫の行動のために、自分の両親が自害したのです。
現代よりも、はるかに親子の縁の濃密だった時代の出来事です。
瀬名姫は、どれだけ悩み傷ついたことでしょう。
夫を愛しているかと聞かれれば、「愛しています」と答えることができます。
けれど同時にその夫の行動によって両親が自害しているのです。
父母の死は、どれだけ瀬名姫の心を傷つけたことでしょう。
本来なら瀬名もその場で喉を突いて死ぬはずのところです。
瀬名がそれを思いとどまり、駿河で生きる決意をしたのは、おそらくは親の遺言によるものです。
「お前は、松平に嫁いだのだから、
 どこまでも夫を立て、
 元康殿(家康のこと)に付いて行きなさい。
 それが嫁というものです。
 今川への忠義は、私たちがしっかりと立ててまいります」
おそらく、そのような言葉か手紙が瀬名姫に両親のどちらかから届けられたのでしょう。
子の幸せのためなら死ねる。
それがこの時代の日本人の思考です。

 けれどそんな親の思いを前に、瀬名姫はどうしたらよいのでしょう。
すでに家康との間に、長男の信康と長女亀姫が生まれています。
その幼な子たちのためにも、瀬名姫は生きなけ ればなりません。
瀬名姫は、誰より夫の家康と二人の子を愛しています。
けれどその夫の 行動によって、瀬名の両親は自害したのです。
両親は「お前は生き残れ」と言う。けれど生き残った瀬名にとって、生きることはそのまま煉獄の苦しみでもあったのです。

 結局瀬名姫は、生きて子を育てることを選択しました。
今川家にとっても、それは三河の松平の世継ぎを人質に置くという意味で、賢い選択でした。
だから瀬名は、そのまま今川のもとで暮らしました。
しかし、いつの世も同じです。
生きていれば生きていたで、今川の家中の女衆は、陰で瀬名姫のことを、
「親まで殺しておいて本人は堂々と生きているなんて。
 ああいうのを毒婦って言うのよ、
 親不孝よねえ」などと噂します。
悪口というものは、必ず本人の耳に入るものです。
子のために生きなければならない瀬名姫にとって、今川での毎日は、まるで煉獄であったことでしょう。

「このまま瀬名殿母子を今川に置いておいてはいけない。なんとか助け出さなければ」と強い思いを抱いた人物がいました。
それが家康の家臣であった石川数正です。

数正は、それまで捕縛してあった今川から城代として岡崎に派遣されていた鵜殿氏長・鵜殿氏次の親子と、瀬名姫母子との人質交換を今川に交渉します。
鵜殿氏長は、今川義元の妹の孫です。
いつの世も、孫ほどかわいいものはないものです。
その孫への老婦の愛情を用いて、石川数正は瀬名姫母子を奪還しようとしたのです。

 石川数正は、八幡太郎義家の六男の陸奥六郎義時の三男の義基が石川姓を名乗ったことに始まる一族です。
まさに源氏の直系として、生まれながらに武門の家に育った人物であり、豪勇無双の男です。
駿河に赴き、この交渉を行おうとすれば、今川方は鵜殿氏長親子を取り返した上で、瀬名姫母子とともに石川数正も殺されかねない交渉事案です。
なぜなら瀬名姫母子という人質を失えば、今川は三河を取られることになるからです。
この交渉は、まさに石川数正だからこそ可能にできた交渉です。

 この人質交換によって、瀬名は岡崎にいる家康のもとへと帰ることができました。
しかし瀬名にはどうしてもできないことがありました。
いくら夫とはいえ、その夫のために両 親が死んだのです。
瀬名は夫を愛しています。
けれど、どんなに身を焦がすほど愛してい る夫でも、自分が夫のそばにあることは、両親への裏切りのような気がしてならないのです。

だから岡崎城を前にしたとき、そこに夫がいるとわかっていても、瀬名はどうしても岡崎 城の門をくぐることができませんでした。
だから瀬名は岡崎城近くの西岸寺に身を寄せました。
ほんとうは尼にでもなりたかったのかもしれません。
尼になれば、この世の人としては、一度死んだことになります。
そうして御仏に仕え、両親の冥福を祈る。
それもひとつの選択でした。

けれど瀬名には、まだ幼い子がいるのです。
亡くなった両親への愛と、子どもたちへの愛情。
それに、この子たちにだけは、自分たち夫婦が味わったようなみじめな人質生活など、決して味わってほしくない。
だから瀬名姫は、結局夫のいる岡崎城へは入らず、岡崎天満宮近くの総持尼寺近くの築山に建てられた家屋に住まいを設けました。
ここで子らを育てる決心をしたのです。
築山のおおもとは古墳です。
ですからそこはいわば墓所を意味するものです。
両親を失ない、墓所の築山に住む女性。
こうして瀬名姫は、いつしか人々から築山御前と呼ばれるようになります。

  家康も瀬名を愛しています。
見合い結婚だったとはいえ、今風に言うなら恋女房なのです。
長年連れ添った仲です。
だからそんな瀬名の気持ちは痛いほどわかる。なんとか瀬名(築山御前)には、安心して暮らして行ってもらいたい。
自分にできることなら、何でもしてあげたい。
けれど同時に、家康には 志 があります。
それは「二度と戦乱の続く日本に戻してはならない」という立志です。
そのために今川との確執を招くとわかっていながら、弾正忠の織田信長と同盟関係を結んだのです。
これは男としての決意です。
しかしその決意のために、妻がとんでもない苦しみに陥ることなってしまった。
妻の苦しみは夫の苦しみです。

瀬名はワシの顔を見るのが辛いのだろう。
ワシも同じだ。辛い。
ただなあ、あいつが近くに居てくれる。
あいつにとってはそれは余計に辛いことかもしれないけれど、ワシにはあいつが必要なんじゃ。
城の天守に登れば、瀬名の家が見える。
それだけでいい。
最初のうちはそう思っていました。
けれど瀬名にとっては、家康の存在そのものが苦しみです。
「ならば」と家康は決意します。
「曳馬に行こう」。

 曳馬というのは、いまの静岡県浜松市から遠州森町にかけての一帯のことです。
曳馬は 地味の肥えた土地であり、そこには天領と呼ばれる御皇室の荘園や、高級貴族の荘園がありました。
戦国武将たちが貴族の荘園を次々に自分たちの支配下に置いて奪った時代にあって、曳馬の人たちは、断固として天領を護り抜いた義理堅い人たちです。
それはつまり頑固者たちだということでもあります。
そのような人たちを従わせるためには、大将自らがその地に赴任しなければならないとは、孫氏の兵法書に書かれていることです。

家康は曳馬の高台に城を築き、あたり一帯を浜松と改名しました。
浜松の名の由来には 様々なものがあります。
そのなかのひとつに、万葉集に掲載された有間皇子の御歌がその理由だとするものがあります。

 磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び
 ま幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む

歌にある「枝を結ぶ」とは、大昔からのおまじないで、木の枝と枝を結ぶことで縁を結ぶ。
もし幸運に恵まれたなら、きっとまたここに戻ってこよう、という歌です。
家康は、浜松という名に、瀬名姫との縁を、再び取り戻したい、あの笑顔を取り戻したいとの希望を託したのかもしれません。

 家康は、嫡男の信康と、妹の亀姫、そして妻の瀬名姫を、城外の築山から岡崎城に越させました。
いつ敵の襲撃を受けるかわからない戦国武将にとって、その妻子が、寺の脇の草庵に住んでいるのでは、いつ拉ら 致ち されたり殺されたりするかわかったものではないからです。
家康にとって、岡崎から浜松への転進は、二重三重に意味のあることだったのです。

 その岡崎で息子の信康はすくすくと育ちました。
九歳のときには、同じ歳の信長の長女の徳姫を妻に娶りました。
そもそも信康という名前自体が、信長の「信」と、家康の当時の名前の元康の「康」を組み合わせた名前です

・・・以下続く

『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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