■□■━━━━━━━━━━━━━■□■新年最初の倭塾は、1月21日(土)13:30から江戸川区タワーホール船堀 401号室で開催です。
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『家康の築いた江戸社会』■□■━━━━━━━━━━━━━■□■万葉集に有馬皇子(ありまのみこ)の御歌があります。 磐代(いはしろ)の 浜松が枝(ゑ)を引き結(むす)び ま幸(さき)くあらばまた帰り見む この歌について、拙著『ねずさんの奇跡の国日本がわかる万葉集』から拙文をご紹介したいと思います。
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画像出所=https://www.1101.com/gakkou_manyo_satonaka/2018-10-05.html
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日本を豊かに 小名木善行です。
!!最新刊!! この歌は万葉集の中で「挽歌(ばんか)」に分類されている御歌です。
挽歌は、雑歌(ぞうか)・相聞(そうもん)とともに万葉集における歌の三大分類のひとつです。
挽歌は、のちには哀傷歌(あいしょうか)と呼ばれるようになります。要するに悲しみの歌です。
有間皇子が生きた時代は、中大兄皇子が、唐に攻め込まれない日本にしていくために、かなり強引に内政改革を進めた時代です。
改革には、もちろん目的があります。
そうしなければならないから、行われるのです。
けれど改革は、改革によって利益を得る者もいれば、不利益を被る人もいます。
そして不利益は、そのまま朝廷における立場の喪失や、財産の喪失を意味します。
それだけに抵抗もまた必死で、中大兄皇子への対抗馬として、中大兄に匹敵する血筋である有間皇子を次の天皇に担(かつ)ごうとしました。
成功すれば反中大兄皇子派の人たちは、中大兄皇子らを粛清(しゅくせい)して、自分たちの時代を築くことができると考えたわけです。
(※ すこし補足します。日本の天皇が国家最高権威であって、政治権力を持たないという国の形は、万古の昔からあったわけではありません。斉明天皇の時代の中大兄皇子によって開始され、(そのために中大兄皇子は天皇にならず、あくまで皇族筆頭として内政の改革である大化の改新等を行っています)、天武天皇に引き継がれ、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘である第41代持統天皇によって完成したものです。)
けれども内外の情勢は、そのような内紛をしていれるような情況にありません。
唐という超巨大軍事帝国が、我が国への侵略を虎視眈々と狙っているのです。
このことを有馬皇子から見れば、自分が担がれることは、イコール日本が滅びることを意味します。
そこで有間皇子がどうしたかというと、自分が担(かつ)がれないように、気がふれた様子を装(よそお)うのです。
一方、中大兄皇子によって蘇我氏の惣領(そうりょう)の入鹿(いるか)を乙巳(おっし)の変で殺された蘇我氏系列の豪族の蘇我赤兄(そがのあかえ)は、なんとかしてこの混乱を利用して、一族の地位向上を図ろうとしていました。
そして天皇および朝廷の高官たちが牟婁温泉(むろおんせん)に湯治(とうじ)に行幸されている間に、有間皇子にそっと近づくのです。
そして
「有間皇子(ありまのみこ)様、
赤兄(あかえ)はどこまでも皇子様(みこさま)のお味方でございます。
いま天皇と中大兄皇子様は湯治にお出かけです。
いまこそ蹶起のチャンスです。
皇位を奪うには、いましかありませぬ。
行幸先を急襲しましょう。
皇子様、どうかご許可を!」
ともちかけるわけです。
もちかけられても有馬皇子は気がふれた風を装(よそお)っているのです。
曖昧な態度しかとれません。
当然です。はっきりした態度を取れば、気が触れていたことが嘘であったことになる。
しかし・・・気が触れたままを装う皇子の態度は、同時に賛成反対どちらの意思表明ともとれるものとなりました。
赤兄は有馬皇子と面談後すぐに中大兄皇子のもとに行き、
「有間皇子謀反(むほん)」
と密告します。
有馬皇子は即刻逮捕され、行幸先の紀伊(きい)の牟婁温泉に取り調べのため護送されることになるわけです。
この御歌はその護送途中の和歌山県日高郡南部町の海岸で食事休憩となったときに詠んだ歌です。
取り調べによって得られる結果は二つ。
ひとつは有馬皇子に謀反の心がないことが立証されて、蘇我赤兄らが処罰されること。
もうひとつは有馬皇子ひとりが処罰され、蘇我氏が安泰となることです。
では御歌を読んでみましょう。
ちなみにこの歌、ボクの出身が浜松なこともあって、なにやらとっても親近感を持っている歌です。
【有間皇子自傷結松枝歌二首】
いはしろの 磐白乃
はままつのえを 浜松之枝乎
ひきむすひ 引結
まさきくあれは 真幸有者
またかへりみむ 亦還見武
けにあれは 家有者
けにもるいひを 笥尓盛飯乎
くさまくら 草枕
たびにしあらは 旅尓之有者
しひのはにもる 椎之葉尓盛
《現代語訳》
【有間皇子がご自分で悲しまれながら松の枝を結んだ歌二首】
護送される途中、和歌山県日高郡南部町の海岸沿いの岩代というところで、浜にあった松の木の枝を結びました。これは思いが通じるというおまじないです。
運が幸いして訊問(じんもん)を見事にかわすことができたなら、きっとこの松の木のもとにまた来ようと思います。
家にいたなら食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅の途中なので椎の葉に盛りつけています。まだまだ評定が定まったわけではないのだから、四角い法定で述べる言い分を、旅の途中のいま、思いのままに考えてみよう。
万葉集はこの歌を「挽歌」に分類しています。
「挽歌」は誰かの死を悼いたむ歌ですから、悪人として処刑されたはずの有間皇子に、万葉集は同情を寄せていることになります。
ということは、この御歌を考えるときには、「なぜ同情しているのか」を考え合わせる必要がある、ということです。
はじめの歌は「おまじないをして必ずこの松の木のもとに帰ってこよう」という歌です。
次の歌は「自分なりに充分に事実関係の言い分を述べて最後まで前向きに戦おうという決意を込めた歌」です。
ところが日本書紀によれば、有間皇子は中大兄皇子の
「何故謀反《なにゆえ謀反を起こしたのか》」
という尋問に、たったひとこと、
「天与赤兄知、吾全不解」
と答えただけであったと記されています。
意味は、
《天と蘇我赤兄が知っている。
私は全容を知らない》
という意味です。
そしてそれ以外のことを一切語らずに、従容(しょうよう)として処刑されています。
歌では「また戻ってくるよ」「ちゃんと答弁するよ」と詠んでいた有間皇子は、ではどうして、なにも語らずに処刑を受けられたのでしょうか。
先程述べましたように、この時代は唐という軍事大国が虎視眈々とわが国を狙っていた時代です。
その力は強大です。
これに抗するためには、なにが何でもわが国を統一国家にしていかなければならない。
防衛網も整備しなければならない。
その一方で、強引な改革には異論反論も続出するという難しい政局の時代です。
反対派の人たちは、皇位継承権のある有間皇子を担ごうとすることでしょう。
けれど国論を分裂させることは、結果として国のためになりません。
ですから有間皇子は暗愚(あんぐ)になったフリまでして、自分が皇位継承者に担ぎ出されて政争の具にされないようにしていたのです。
国を護るために暗愚になったフリをするというのは、スケールは違いますが、後年徳川幕府に睨まれないように、わざと鼻毛を伸ばして暗愚を装った加賀藩の二代目藩主の前田利常がいます。
ところがそうまでしても有間皇子は、その血筋ゆえに政治利用されてしまうわけです。
利用された以上、責任は上に立つ者、つまり有間皇子にあります。
蘇我赤兄のせいにはできない。
ですから有間皇子は他人に嵌められた濡れ衣であっても、利用された不徳を恥じて、一切の釈明をしないまま、処刑を受け入れるほかなかったのです。
そもそも臣下とは、出世のためにそういう裏切りや欺罔(ぎもう)、欺瞞(ぎまん)をするものなのです。
人の上に立つ者は、いちいちそれを恨(うら)んではいけない。
それが人の上に立つ者の在り方であり、皇族の在り方であり、人としての在り方なのだという、これこそが生まれたときから人の上に立つように定められた者が持つ、無私(むし)の心です。真実を述べることは、今度は蘇我赤兄以下、多くの人々を罪に落とすことになります。
唐の脅威に抗するための大切な一族とその兵力と、自分ひとつの命と、どちらが大切か、どちらを採るべきか。
これは、公と私と、どちらを優先すべきかという問いなのです。
誰だって生きていたい。
理不尽な濡れ衣なら、なおさら生きることを選択したい。
けれど、国の利益を考えたときに、自分がどうあるべきなのか。
生きたいという渇望と、無私の心で罪を受け入れるという葛藤。
そのなかで有間皇子は、生への渇望を、この二首の歌に託して、捨てたのです。
こうすることで心に踏ん切りをつけた有間皇子は、裁(さば)きの場で、一切の言い訳をしないで、ただ「天と赤兄が知っている」とだけ述べて刑死の道を選ばれたのです。
それは有間皇子の、どこまでも国の平穏を想う心のなせる選択です。
我が身の犠牲を問わない。
これこそが、日本のご皇族の無私から生まれる愛の心です。
そして我が国の中心にある国家最高権威が、そのような態度姿勢であるがゆえに、その下にある権力機構もまた、わたしくに背(そむ)いて公(おほやけ)に向かう、「背私向公(はいしこうこう)」なのです。
戦後の日本では、個人主義こそが幸せであると、盛んに宣伝されました。
それは、一面においては正しいことであると思います。
けれど、社会の上に立つ人たちまでが個人主義になってしまったら、世の中はどうなるのでしょうか。
その典型が、中共であるし、あるいは米国です。
そしてそれらは、果たして良い国といえるのでしょうか。
逆に、日本が目指した国というのは、どのような国であったのでしょうか。
そのことを、あらためて考え直す時期に来ていると私は思います。
最後にひとつ。
静岡県に浜松市があります。
そこに家康公ゆかりの浜松城があります。
家康の時代、そこは曳馬(ひくま)と呼ばれる地でした。
天竜川の氾濫がひどく、水田が営めない。
そこで馬を育てることが、主な産業となっているところでした。
だから曳馬(馬を曳く)と呼ばれる地となっていたのです。
ちなみに、隣に磐田(いわた)市があります。
昔は、盤石の水田地帯であったことから、その名が付いたし、中央朝廷の古くからの荘園がおかれていたところです。
磐田と曳馬、地名には意味があるのです。
さて、その曳馬の地を、浜松と改名したのが家康です。
当時、岡崎に城を構えていた家康は、妻の瀬名姫が、いろいろな事情があって、どうしても城に入ってもらえない。
けれど時は戦国の世です。
いつまでも岡崎城近くのお寺の築山脇の仮小屋で妻子に寝泊まりされていては、あまりに危険です。
そこで家康は、自分が曳馬城に引っ越し、その代わりに築山御前に岡崎城に入ってもらうようにしました。
そしてこのとき家康は、曳馬城を浜松城と改名しています。
理由は、「浜松が枝を引き結び」という有間皇子の歌によります。
離れてしまった築山御前との縁を、また結びたかったのかもしれません。
けれどその後、家康は築山御前と長男の首を刎ねることになりました。
このことは、家康にとって、とてもつらい出来事でした。
後年、50歳の坂を過ぎた家康が、いまだ正妻を娶らず、また仕える美女たちに目もくれず、あまり器量の良くない農家の後家さんばかりを側室にすることを、ある人が、「どうして?」と尋ねたそうです。
すると家康はひとこと。
「そのようなことをすれば、瀬名が悲しむ」
そう、述べたそうです。
日本の歴史は、まさにいろいろな出来事があった歴史です。
けれど、その歴史は、常に深い愛に支えられた歴史でもあるのです。
この記事は拙著
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』からの引用をもとに補足を書いたものです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
渡辺
3年前のコロナ騒ぎに始まり、安倍元総理暗殺から今に至るまでの国民生活を揺るがす急激な社会変容。安倍政策のすべてを葬り、塗り替えようとしているかのようです。批判は多かったけれど、国際評価は高まり国内では雇用は増え明るさを取り戻し、特に若者が生き生きとし始めていただけに、再び暗黒時代に引き戻される様を冷ややかに見ているところです。
日本史の上で不幸な時代には特徴があります。はっきりいえば、中大兄皇子の起こした暗殺事件(乙巳の変)から始まる(正確には持統天皇時代の藤原不比等から)『日本型(藤原氏の為の)中央集権体制』の時代です。
特徴として①独裁により中央のみが栄え地方は搾取で疲弊②反乱や略奪(外国人による侵略も)が頻発し社会不安が増大③政権発足後早い段階での朝鮮出兵(対外侵略戦争)
粗いですが、長い奈良・平安時代後政治権力をとった武家の平氏も貴族化して嫌われ、やっとできた武士=国民による『合議制』鎌倉幕府→(建武の新政→室町幕府⇒)豊臣時代(秀吉は藤原氏の養子として太政大臣)→江戸幕府→明治時代(初代太政大臣:三条実美=藤原氏、初代総理大臣:伊藤博文=藤原氏の養子)→現代
私にとってねずさんからの学びが基ですが、縄文時代から出来上がった本来の日本の政治は『合議制』だと確信しています。日本人の遺伝子には公平さを求める倫理観が深く刻まれているはずです。古事記にも高天の原の政治形態として示されていますし。
実際に独裁と謀反を糾弾され、暗殺された蘇我入鹿までは、朝議での議席は一氏族の代表一票だったといいます。これを覆して朝廷を独占していったのが藤原氏(特に仲麻呂=恵美押勝)です。この藤原氏が権威の象徴として天皇を利用し、日本人を支配するというのが『日本型中央集権体制』の構図です。
今回の中大兄皇子と有間皇子のお話は、日本人感として違和感があります。藤原氏がつくった律令制度こそ『日本型(藤原氏の為の)中央集権体制』の根幹ですから当然善悪ではなく損得が根拠で、支配者に都合のよい法律がつくられそれが支配の正当性となる。幕府政治(=日本人の価値観)が全否定した、中世の魔女狩りを引き起こしたキリスト教的一方的価値観と同根です。
ここ最近勉強しているのが関祐二さんという研究家の著作で、『万葉集に隠された古代史の真実』という著作に有間皇子はじめ、持統天皇が謀殺したと思われる大津皇子(天武天皇の皇子)、長屋王、安積親王が反藤原氏である大友氏らの告発こそ万葉集だという証明が試みられています。ねずさんの『百人一首』同様、興味深いものです。百人一首は正に藤原氏時代の正当化だと気付く事もできましたし。なぜ天武天皇が命じた国史が『古事記』『日本書紀』二つなのかも解りました。『日本書紀』は藤原不比等がプロデュースした藤原氏の為の正史だからで、これに抗したのが『古事記』だから。比較すると納得できます。
志那的中央集権体制での階層社会、官僚→知識人(官僚になれなかった、官僚から落ちた)=日本でいう有識者→平民→奴隷…今の日本社会そのものですよね。選挙で変わるのは学級委員長だけ。学校の運営や教育制度はつつがなく政府支配の下に有り続けるのと同じです。
最後に、安倍さんは属性の多い人でしたが、取り戻そうとしていた相手こそ『独裁者』で、対象は『合議制の本来の日本』と信じています。真逆に大ブレしている今の日本を牽引するものこそ、日本人の本当の敵のはずです。
渡辺
2023/02/18 URL 編集