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『家康の築いた江戸社会』■□■━━━━━━━━━━━━━■□■桜はまだかいな 柳ャなよなよ 風次第 山吹や浮気で 色ばっかり しょんがいな
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日本をかっこよく!!!最新刊!! 梅が咲き始めましたね。
そこで梅にちなんで、明治時代の流行歌『梅は咲いたか』をご紹介してみたいと思います。
『梅は咲いたか』は、江戸端唄(はうた)といって、明治時代に流行した俗謡『しょんがえ節』を基にした小唄です。
「端唄」というのは、江戸末期の天保年間頃から流行だした小曲です。
老中首座となった水野忠邦が行った天保の改革で、なんと三味線が贅沢だと禁止されました。
ちなみにこの天保の改革、あまりに激しく質素倹約が説かれたことで、街で武士が団子を食べているだけで「贅沢をしている」とタレコミがなされるほどでした。
このため武士たちは、食事をするときも編笠をとかないようになり、これがよく時代劇に出る武士の編笠姿に繋がっています。
天保の改革は、なんとそこまで激しい改革だったわけですが、現代のマスクとちょっと似ているかもしれません。
さて、厳しかった天保の改革終わってから10年後、ようやく巷(ちまた)では、再び三味線を弾けるようになりました。
ところが長唄のようにレパートリーが長い曲は、素人にはなかなかむつかしい。10年のブランクは大きいのです。
そこで10年の穴を埋めるには、気楽に楽しめる短い曲が良いと生まれたのが「端唄」です。
端唄には、江戸で流行った江戸端唄、上方(かみがた)で流行った上方端唄があります。
この端唄が、幕末から明治にかけて『しょんがえ節』の流行になっていきます。
『しょんがえ節」というのは、いわば「しょうがねえなあ」と思えるようなものを歌詞にした歌謡で、歌詞の最後に「しょんがえ」という囃子詞(はやしことば)を付けて唄います。
今回ご紹介する『梅は咲いたか』も、花柳界の芸妓たちを季節の花々や貝に例えて、「しょうがねえなあ」と唄った歌です。
梅は、修行中の幼女である禿(かむろ)から、お新造さんといって、お座敷に出るようになった若い娘。
桜は、その上の姐さんで、山吹は実を結ばない浮気性といった感じです。
『梅は咲いたか』歌詞
梅は咲いたか
桜はまだかいな
柳ャなよなよ 風次第
山吹や浮気で
色ばっかり しょんがいな
浅蜊(あさり)とれたか
蛤(はまぐり)ャまだかいな
鮑(あわび)くよくよ 片想い
さざえは悋気(りんき)で
角(つの)ばっかり しょんがいな
柳橋から小船を急がせ
舟はゆらゆら波しだい
舟から上がって 土手八丁
吉原へご案内江戸から明治初期の江戸では、主な交通手段は、川を用いるものでした。
当時は隅田川も人が泳げるほど水がきれいで、神田上水や玉川上水もまた、そのまま飲料水になるほど、きれいな水が流れる川でした。
そんなきれいな川を、船頭さんが操船する和船で往来をしていました。
のんびりしたもので江戸から川越まで片道36キロ。
歩けば10時間、船だと15時間。
つまり船のほうが遅いのですが、どうせ遅いならと、その船に屋根を付けて、中で一杯。
ほろ酔い加減のいい気分で過ごしたりしたわけです。
江戸の柳橋から吉原に行くのも、急ぎ足で歩くのではなく、和船でのんびりというのが風流で、およそ5キロの川筋を、だいたい半刻(1時間)くらいかけて、のんびり揺られて行きました。
ちなみに現代ですと、車で15分、電車なら5分の道のりです。
さて、梅の花を国花にしている国といえば、チャイナと思っている方が多いのですが、梅を国花としたのは、清国と台湾に移動した中華民国で、中共は、いまだ国花が決まっていません。
なにしろ欲張りな国なので、牡丹・梅・菊・蓮・蘭の五つの花を全て中共の国花にしようとの意見もあって、なかなか調整がつかないのだそうですが、国花は、その国の心のゆとりの在り処を示すものとされています。
米国ならバラ、英国ならバラと水仙、フランスがユリ、イタリアがデイジー、スペインがカーネイション、メキシコがダリア、オランダがチューリップといった具合です。
まあ、そういう意味では、欲に目がくらんだ国では、国の花は「あれもこれも」となって決まらないのかもしれませんね。
では日本はどうかというと、多くの方は日本の国花を桜と思っておいでかと思いますが、ご皇室は菊です。
つまり現代日本もまた、中共と同じで法定の国花がありません。
日本もまた、欲に目がくらんだ、どこぞの国と同じということです。
残念なことです。
もともとは日本では、鎌倉時代の初めに後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好まれ、これをご皇室の家紋にされています。
そして日本は、天皇の知らす国ですから、その意味では日本のすべては天皇のもの(ただし政治権力は持たない)であり、そうであれば現代風に日本の国花をもし言うならば、江戸時代までの日本では、国花は菊であったといえるかもしれません。
あるいは、もっと古い時代になりますと、平安初期の第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の時代に、内裏に桜を植えられたという記録があり、これが現代まで続く「左近の桜、右近の橘」の由来になっています。
一方、幕末明治維新の志士たちの生みの親となった吉田松陰は、
大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花と詠みましたが、美しく咲き誇り、見事に散っていく、そんな心が明治以降の日本人の生き様とされるようになりました。
その意味では、大日本帝国の国花は、桜であったといえるかもしれません。
美しく立派に散るぞ
そう言って一番機に向かう友の胸に
俺はまだつぼみだった桜の一枝を飾って贈った
明日は俺の番だ
死ぬ時は別々になってしまったが靖国神社で会える
その時はきっと桜の花も満開だろう (鶴田浩二『同期の桜』台詞より)
日本をかっこよく!
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コメント
ジェミニ
後鳥羽上皇の段階では、菊の御紋は個人的な御印だったと考えます。ご存知のとおり、後鳥羽上皇は承久の変で隠岐に流され、当時の天皇(仲恭天皇)も廃されて、皇統は後鳥羽の兄・行助入道親王(後高倉院)の系統に移ります。が、後堀河・四条の二代が若くして崩御されて後高倉院系の男子皇族が絶えたため、皇統は後鳥羽系に戻ってきます。こうして即位されたのが後嵯峨天皇です。後嵯峨天皇は即位4年で譲位して上皇になり、このときから菊花紋を使用しています。帝の側近だった葉室定嗣の『葉黄記』には、後嵯峨天皇は後鳥羽院の正当な後継者であることを強く意識して菊の紋章を使った旨の記述があります。
後嵯峨上皇は後鳥羽院の孫(後鳥羽天皇の第一皇子である土御門天皇の子)ですが、即位に際して同じ後鳥羽院の孫にあたる忠成王(後鳥羽天皇の第三皇子である順徳天皇の子、仲恭天皇の異母弟)と皇位を争いました。後鳥羽上皇や順徳上皇が崩御された後も京都には後鳥羽上皇の寵妃で順徳上皇の生母・修明門院(法性尼)が存命で後鳥羽上皇の法事を行ったり、自身の孫である忠成王をなおも皇位に就けるよう活動していました。これに対抗する意味でも後嵯峨上皇は「後鳥羽院の正当な後継者」を強調する必要があったと思われます。
後嵯峨上皇は20年以上院政を続けましたが、後継者を明確に定めずに崩御したため、その後に兄・後深草天皇の持明院統と弟・亀山天皇の大覚寺統の両統並立時代が到来します。両統とも「後鳥羽院・後嵯峨院の正当な後継者」であることを示す必要から菊の紋章を使い続けることとなり、定着していったものと思われます。
なお、大覚寺は「嵯峨菊」でも有名ですが、これは後嵯峨上皇ではなくて嵯峨天皇ゆかりということになっております。
2023/03/08 URL 編集