ラクダで隊商を組んで長旅をするには、途中で水や食料の補給が不可欠です。 それらを持って旅に出るなら、食料の輜重隊を連れての大掛かりな隊商になるのだけれど、そこまでしても、肝心のガラスが割れてしまったら、元も子もない。
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日本をかっこよく!世界を支配するモンゴルの大帝国。その大帝国の保証のもとで発行される通行証。その通行証が基になって生まれた交鈔(こうしょう)という名の交換価値を持つ紙幣。その紙幣の信用は元の大帝国が保証する・・・という循環のなかで、モンゴル帝国の紙幣は、またたく間に流通していきました。
この時代には、ただの紙切れが高い交換価値を持ったわけではありません。
モンゴルの紙幣は、モンゴル族が専売権を持つ、塩との交換ができる兌換紙幣(だかんしへい)でした。
当時の大陸の内陸部には、大河が流れていたし、いまのタクラマカン砂漠のあたりは元々は氷河期の氷が溶けた湖で、モンゴル帝国の時代には、そこに大きな川が流れていました。
敦煌や桜蘭は、いまでこそ「砂漠の中の廃墟」ですが、この時代には川に面した水郷であったのです。
川があれば、魚も獲れるし緑も育ちます。
けれど、内陸部の人たちにとって、最大の難点は塩でした。
陸上動物は、海中動物であった時代の海中のミネラルや塩分を脊椎や血液に持つことで陸上で生きることができるように進化した生き物です。
ですから、どうしても塩分が必要です。
その塩の専売権を、モンゴルが独占したのです。
そして紙幣は、そのモンゴル族が専有する塩と交換できることで、その信用が担保されたのです。
こうして誕生した紙幣は、人々の暮らしに大きな影響を与えました。
なにしろ、欲しい物があったら、紙切れ用いて手に入れることができるのです。
そしてこうした制度を通じて、モンゴル帝国は、紙幣が乱発されることでインフレが起きること、通貨流通量をコントロールすることで、物価を正常に保つことなどを学びます。
こうして紙切れが富となり、それがユーラシア大陸における共通の価値観になっていきました。
そしてこの紙切れを大量に確保することができたのが、石屋(メイソン、Mason)さんや、あるいは石(ロック・Rock)のフェラー(屋・Feller)さんたちでした。
彼らは、城塞都市の石の壁のメンテナンスを請け負います。
城塞都市は、石でできた城壁によって城を守るのです。
ですから、腕の良い石屋さんたちは、モンゴル中でひっぱりだこになったし、多数の城塞と取引をすることから、いつしか彼らは、金融為替業をも行うようになっていったのです。
ところがここに大事件が勃発します。
それが14世紀のペストの大流行です。
チャイナの中部あたりで発症したペストは、またたくまにチャイナ全土を席巻し、当時の元の大帝国の人口1億2000万人を、わずかな間に、たったの2000万人にまで減少させてしまいます。
さらにペストは、大モンゴル帝国の交易ルートに乗って、ユーラシア大陸を城塞都市から城塞都市へと広がり、ついにはヨーロッパにまで達して、当時のヨーロッパの人口の6割を死滅させるに至ります。
あまりの伝染病の猛威に、モンゴル人たちは、国を放り出して、皆で北のモンゴル高原に帰って行きました。
大都と呼ばれた北京からも、ユーラシア大陸全土にまたがる城塞都市からも。
なぜなら北のモンゴル高原は、人口が少なく、空気が乾燥していて、風があるため、ペスト菌が飛ばされてしまって感染が生じなかったのです。
こうしてユーラシア大陸から、支配層であるモンゴル人たちがいなくなりました。
また、城塞都市の民衆のほとんどが死滅してしまいました。
こうして、かつてユーラシア大陸を席巻したモンゴルの大帝国は消滅していったのです。
ちなみにこのとき、誰も居なくなった南京に、ペストに罹患しなかった者たちだけで勝手に入り込んだのが、貧農の子であった朱元璋が率いる暴徒の一味で、カラスが鳴いているだけの「誰もいない都」に入って、勝手に「皇帝」を名乗り、これからはモンゴルの支配ではない明るい国を創るのだ、といって出来た国が「明国」です。
明の歴史書を見ると、いかにも朱元璋が、古代のチャイナの英雄よろしく、果敢にモンゴル軍と戦って勝利をおさめて明を建国したかのように書かれていますが、実際には、ほとんどの人が死んで誰もいなくなった王都を勝手に簒奪しただけのことです。
さて話をもとに戻しますが、感染症によって8割の人口が失われ、経済も生活も破壊され、モンゴルの大帝国までなくなってしまうと、当然のことながら、モンゴル族が保険していた紙幣の信用も失われます。
なにしろ塩と交換できることが価値の源泉だったのです。
その交換ができないなら、もはやそれは通貨ではなく、ただの紙切れです。
こうなると、困るのが大量の交鈔を持っていた石屋さんたちです。
なにしろ、それまでの通貨は、モンゴル帝国という大帝国がお墨付きを与えてくれていた《交換価値を保証してくれていた》からこそ、価値のあった紙切れです。
これにより、多くの石屋さんたちが廃業、倒産していきました。
紙の紙幣の交換価値がなくなったとき、頭角を表したのが金《Gold》でした。
そしてこの時代、大量の金《GOLD》を持っていたのが、中東にあったオスマン・トルコでした。
オスマン・トルコというのは、オスマン家がリーダーとなっている多民族国家です。
イスラム教国ではありますが、イスラム教というのも、一枚板ではなくて、さまざまな宗派があり、必ずしも統一されているわけではありません。
イスラム教徒同士での対立もあれば闘争もある。
にもかかわらずオスマン家が、中東一帯を統一できたことに、実は日本が関係しています。
中東の商人たちが、はるばるシルクロードを越えて東洋にまでやってきていたことは、皆様御存知の通りです。
ではその中東の商人たちが、どのような品物を持って商いをしていたのかというと、ひとつが絹織物であるペルシャ絨毯、もうひとつがガラス製品でした。
実は、この当時のガラスは、いまのように石英を加工してガラスにしていたものではなくて、砂漠から原子取得されるものが再利用、もしくは活用されていました。
砂漠に雷が落ちますと、そこにガラスが生成されます。
ですから、激しい落雷の後には、そこいらじゅうにガラスが落ちていました。
ガラスは、少しの熱で容易に変形しますし、絵の具を混ぜればカラー化もします。
つまり加工が極めて容易です。しかも仕入れの費用は、タダです。
それでいて、ガラスを持っているのは、中東商人だけ、というわけです。
そして半透明で美しいガラス製品は、世界中で喜ばれる商品となりました。
とりわけガラス製品を喜んだのが、ユーラシア大陸の東の外れの海に浮かぶ「ヤポン(Japan)」と呼ばれる国でした。その国の名は、漢字では日本と表記され、中国語の発音が「リィー・ポング」です。
これを元の時代のマルコポーロが、母国語で「ZIPANG」と表記し、それがヨーロッパに伝わってジパングとか、ヤポンとか表記されるようになりました。
その日本は、森林に恵まれている国であり、砂漠がありません。
ですからガラスもありません。
日本人にとって、ガラスはものすごくめずらしいものでした。
一方、日本は火山国であるため、特に東北地方を中心に金《GOLD》がたくさん採れました。
というより、当時の東北地方では、川に入ってザルですくうと、金色の粒である砂金がいくらでも採れました。
あたりまえにたくさんあるものは、その国では価値を持ちません。
当時の日本では、金《GOLD》は、ただの塗料です。
いくらでも採れるから、お金になりようがなかったのです。
加えて、当時のユーラシア大陸では、紙の紙幣である交鈔が利用されていました。
その日本は元との国交がありません。
ですから交鈔が日本で通貨としての価値を持つこともありませんでした。
通貨というのは、究極的には「その国で税を支払えるもの」のことをいいます。
つまり日本では、お米が税でしたし、通貨の役割を果たしていました。
お米を産しない漁業や林業、畜産業の人たちは、労役が税のうちでした。
従って金《GOLD》は、まさに染料や塗料や、観光土産です。
いまでいうなら、沖縄の星の砂、みたいなイメージのものでしかなかったのです。
ところがそんな日本人が、日本海を渡ってウラジオストクまで行くと、そこには中東の商人がやってきていました。
日本人にとっては、ウラジオストクまでの航路は、日本列島の日本海側を北上する対馬海流、樺太の北側から大陸沿いに南下するリマン海流を用いることで、単に船を海にうかべているだけで、行くことができる楽な旅でした。
このため、日本海を利用した交易の歴史は古く、すでに紀元前には航路が確立していたという人もいます。
日本海交易は、まさに大昔からあったものだし、日本産の金《GOLD》を持ってウラジオストクまで行くと、日本人はそこで、日本人にとっては世にもめずらしい中東のガラス製品と金《GOLD》を交換できたわけです。
日本では、ガラス製品はたいへんめずらしく《なんたって正倉院にまで保存されているほどです》、これを貴族である国司や守護大名等に献上すると、税の代わりになったり、あるいは税の減免に役立てることができました。このことはお米が育ちにくい《日本海側の越後や秋田、あるいは寒冷地である東北地方で、熱帯性植物であるお米の栽培が盛んにできるようになったのは、近世に入って、お米の品種が改良されてからのことです》地方の人たちにとって、どれだけ大きなメリットになったか、計り知れません。
そして日本人にとって、金《GOLD》は原始取得《元手なしで取得できるもの》です。
中東の人たちにとって、ガラスはやはり原始取得できるものです。
つまり、日本人と中東商人は、双方ともに原始取得した、つまり元手がタダの物品を用いることで、大儲けをすることができたのです。
火山のない中東では、金《GOLD》はものすごくめずらしいものです。
中東の商人たちは、タダで手に入るガラス製品を、とにもかくにもウラジオストクまで運びさえすれば、たった一度の交易で、一生遊んで暮らせるほどの金《GOLD》が手に入ったのです。
ちなみに、このために生まれたユーラシア大陸を横断する道のことをシルクロードと言いますが、シルクロード商人たちが、月の砂漠をはるばると・・・というのは、NHKの『シルクロード紀行』が描いたファンタジーです。
そもそもガラス製品を、ラクダの背中に乗せてガチャガチャと運んだら、みな割れてしまって商品になりません。
またラクダで隊商を組んで長旅をするには、途中で水や食料の補給が不可欠です。
それらを持って旅に出るなら、食料の輜重隊を連れての大掛かりな隊商になるのだけれど、そこまでしても、肝心のガラスが割れてしまったら、元も子もないのです。
実際には、16世紀くらいまで、ユーラシア大陸の、いまでは砂漠となっている土地の多くには、大きな川が流れていました。オスマン帝国の東端にあるインダス川を北上すると、キルギスを経由してバルハシ湖、ザイサン湖に至ります。そこから川を下るとハンカ湖を経由して、ウラジオストクにまでたどり着くのです。
従ってシルクロード商人というのは、「ラクダに乗って月の砂漠をはるばると」ではなく、「川を使ってラクラクと」釣りを楽しみながら、旅を続けることができたのです。
それがどうしてシルクロードという名前が付いたのかというと、19世紀のドイツの地理学者のフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(Ferdinand Freiherr von Richthofen)が、著書の『中国(China, Ergebnisse eigener Reisen und darauf gegründeter Studien)』という全5巻の本の第1巻(1877年出版)の中で「Seidenstrassen」と命名したことによります。
彼はササン朝ペルシャを出発して唐の長安に至る交易を考えたとき、ペルシャの側には壺やガラス製の器機、絨毯など、さまざまな産物があるのに、唐の側には、産物らしい産物がない。
あるものといえば、山くるみ、スキ餅、金華ハム、鴨の醤油漬け、木彫り、石彫り、茶、紹興酒に、北京ダックくらいなものです。
くるみや餅やハムは、長期間を要する旅で運ぶには適さないし、木彫りや石彫ならペルシャの方が技術が上です。
要するに圧倒的な当時の最先端物産を持つペルシャに対し、唐の側には、それに応ずるだけの産物がない。
そこでやむなく、上海にまで足を伸ばして、上海にほど近い杭州のシルクが、絹織物としてペルシャで珍重されたのではないかと、かなり無理な推測をして、付けた名前が「シルクロード」であっただけのことです。
なるほどペルシャがいまなお誇るペルシャ絨毯は、素材に絹が使われていますが、その絹は、いまのイランのカシャーンのあたりが大産地です。
しかもカシャーン・シルクは、今も昔も変わらないチャイナ産のチャイナ品質シルクよりも、はるかに品質が安定していいて高品質です。
つまりペルシャの側には、唐から絹を輸入する必要がまったくないのです。
このように考えると、中東の商人たちが、わざわざ遠く唐の長安まで出かけていく理由はなにもありません。
ところがウラジオストクまで行けば、先程も書きましたように、たった一度の交易で、一生遊んで暮らせるほどの金《GOLD》が手に入るのです。
さて、話をリヒトホーフェン男爵のいた19世紀から、もとの話の14世紀に戻します。
金《GOLD》とガラスの交換によって、中東商人たちは、活発に東西を往来するようになり、日本産の黄金は、遠くペルシャの方にまで大量に運ばれることになりました。
モンゴルの大帝国がペストの大流行によって消滅したとき、モンゴル帝国の多くの都市では、人口が失われただけでなく、モンゴル帝国という後ろ盾を失った通貨の交鈔もまた、ただの紙屑となりました。
そしてこのとき、最も多くの金《GOLD》を蓄えていたのが、ジャパン交易で金《GOLD》を大量に持っていたオスマン家であったのです。
いつの時代も、カネのあるところに力(暴力)も集まります。
オスマン家は力を付け、ついには地中海の交易権も、力で奪いました。
これにより地中海で交易をする船は、儲けをことごとくオスマン家に吸い取られることになったのです。
そのオスマン家の財産を預かり、また送金などの為替業務を遂行したのが、モンゴル帝国時代からの石屋さんでした。その石屋さんのことを英語でメイソン( Mason)または、石(ロック・Rock)のフェラー(屋・Feller)と言いました。
石屋さんたちの働きは、いまでいうなら、中米の麻薬マフィアのボスの資金を銀行が預かったり、マネーロンダリングの手助けをするようなものです。
石屋さんたちには直接の力はありませんが、最初はモンゴルの、ペスト以降はオスマン家の資金管理をすることで、次第に破格の大金持ちになっていくのです。
一方、オスマン家は、ただカネ儲けができれば良い、そのために力を行使するというだけの国であったし、ただカネだけの国ですから、中東のあらゆる民族のつながりを保つこともできました。
ところが、もともと個性が強い人々です。しかも根底には宗教上の対立もある。
おカネに余裕ができてくると、次第にそうした内部の対立や闘争が盛んに行われるようになります。
そして、支配層であるオスマンに戦いを挑もうとする人たちは、さまざまな担保を介して、石屋さんに借金をして、武器を揃え、兵を蓄えて、反乱を起こしました。
これによって起きた戦争が、
オスマン・マムルーク戦争(1516年 - 1517年)であり、
1516年のマルジュ・ダービクの戦いであり、
1517年のリダニヤの戦いであったりするわけです。
こうしてオスマン帝国は、内部の対立と闘争によって次第に分裂し、力を失っていくのです。
さらに地中海でのオスマンの収奪に怒りを蓄積させていたヨーロッパのキリスト教国が、オスマンに戦いを挑みます。
これが16世紀のハプスブルク=オスマン戦争です。
これによってオスマン帝国は次第にトルコ以東に追い立てられ、ヨーロッパ諸国は次第に独立を回復していきました。
要するにヨーロッパは、ハプスブルク家によって守られ、力をつけることができたのです。
けれどそんなハプスブルク家を、ヨーロッパ諸国は潰しています。
恩を仇で返したわけです。
ちなみにこの時代の戦争は、基本、傭兵と呼ばれる専業戦士達によって行われていました。
つまり王が、傭兵を雇い、傭兵たちに戦争をやらせて、勝利の対価として権益を得る、というものです。
ということは、傭兵を雇うには、おカネがかかるわけです。
そのおカネは、すでにモンゴルの交鈔は使えませんから、もっぱら金《GOLD》によりました。
その金《GOLD》は、オスマンが大量に持っていましたが、これを石屋さんたちが預かっているわけです。
オスマンに対抗しようとする人たちは、何らかの担保を差し出して石屋さんから金《GOLD》を借り、借りた金《GOLD》で傭兵を雇って戦争をしたわけです。
ここで力を付けたのががスペインとポルトガルです。
両国は地中海の入口にあり、オスマンが取り仕切る地中海交易からは締め出されています。
といって北大西洋の海上交易は、北方のノルウェーやスウェーデンのバイキングの力が強く、また英国の捕鯨船もまた脅威となっていました。
英国の捕鯨船は、クジラを撃つモリで、他国の船舶を襲って利益を上げていたのです。
このためスペインとポルトガルは、アフリカに市場を求めていくしかありませんでした。
そのアフリカには火山があります。
そして火山のあるところには、日本と同じく金《Gold》があります。
スペイン・ポルトガルは、こうしてアフリカから北米、南米にまで足を伸ばし、現地の金《Gold》を集めるのです。
こうしてはじまったのが「大航海時代」です。
さて、その続きがどうなっていくのか。
続きはまたの機会に。
※この記事は2021年5月の記事のリニューアルです。
日本をまもろう!お読みいただき、ありがとうございました。
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