天皇皇后両陛下

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日本をかっこよく!古事記に「国譲り神話」があります。
出雲にあった大国主神が高天原の求めに応じて国を譲り渡したお話です。
大国主は国の譲渡の条件として「私の住処(すみか)として、大地の底まで宮柱が届き、高天原まで千木が高くそびえ立つほどの、大きく立派な神殿を建ててください。そうすれば私はそこに隠れましょう」と述べました。
そうしてご創建されたのが出雲大社(いずもおおやしろ)です。
この「国譲り神話」は、わたしたちの国が、戦(いくさ)よりも話し合いで解決する精神や、敗れた側を皆殺しにしたりするのではなく、その名誉を讃え尊重するという日本的心の教えとして紹介されることが多いのですが、もうひとつ、実はとても大切な教えが書かれています。
それが「シラス」と「ウシハク」です。
この「シラス」と「ウシハク」について、古事記の大国主神話から学んでみたいと思います。
*
大国主神は、若い頃は大穴牟遲(オオナムチ)という名でした。
この頃のエピソードが有名な因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)です。
大穴牟遅は、ウサギを助けることで、やさしい性格であること、古代の医療知識を持つ頭の良い青年であることが明かされます。
そしてこの助けたことがご縁となって大穴牟遅は八上比売(やがみひめ)と結ばれています。
つまり見た目も良い若者であったわけです。
ところが大穴牟遅が八上比売と結ばれたことで、彼は兄の八十神たちから激しい嫉妬を受けます。
古来、男の嫉妬は女性の嫉妬の何百倍も怖いといいます。
案の定、大穴牟遅は、何度も命まで奪われるような仕打ちを受けます。
多勢に無勢どころか、大勢の兄たちに対して、大穴牟遅はたったひとりです。
一方的にイジメられるのです。
心配した母や大屋毘古神(おほやびこのかみ)の勧めに従って大穴牟遅は、根の堅州国(ねのかたすくに)の須佐之男命(すさのおのみこと)を尋ね、そこで厳しく鍛え上げられます。
そして須佐之男命の太刀や弓をいただいた大穴牟遅神はイジメていた八十神たちを全部やっつけて、八千矛神(やちほこのかみ)となり、大いなる国の主となったというのが、大国主神話です。
大国主神の治世によって、中つ国はおおいに発展し、国力を充実させて遠く韓国(からくに)までも平定したということが古事記に書かれています。
彼の国は国の領域も経済もおおいに発展して大いなる国となったのです。
ところがこの大国主神の国には、二つの大きな問題がありました。
ひとつは、大国主神が大王としての権威と権力の両方を併せ持つ存在であったこと、もうひとつは、国際交流によって都市部の経済がたいへんに発展した国であったことです。
書かれたものというのは、必ず書いた目的があるものです。
王が権威と権力の両方を併せ持つという社会体制は、世界中どこにでもあったことで、いまでも世界中の国家は、たとえ民主的な選挙で選ばれたとしても、大統領、総理、総書記、いかなる名称であれ、その職務に就いた瞬間から、民衆に対する権力者であり、その権力は多くの場合、法の権威によって支えられています。
それだけを見ていたら、その何が問題なのかが見えてきません。
ではその何が問題かというと、例えば王の場合ですと、王は国家における最高権力者であり、同時に国家の最高権威者です。
ということは王の下にある者は、王の意のまま、もっと単純化して言うならば、王の所有物と同じです。
つまり王からみれば、国のすべては自分のものなのですから、その自分のものをどのように処分しようが、王の勝手ということになります。
つまり民衆は権力者のもとに私的に私有されてしまうことになるわけです。
国際交流によって経済がたいへんに発展して国が豊かになること自体はとても良いことです。
けれどその利益は、特定の人にしか配分されないとしたらどうでしょう。
人は食べなければ生きていけませんが、その食べ物を作っている一般の民衆は、国の経済の発展とは別に、経済的にはおいてけぼりを食うことになります。
つまり都市部に住む人達は豊かになりますが、その都市部の人達に食べ物を供給する農家は、貧しいままに据え置かれてしまうのです。
さらに人々の欲望があおられ、利益至上主義のような状況が生まれると、その都市部においてもまた、貧富の差が増大します。
富を得たものは、ますます大きな富を求めるようになるからです。
これは、単に富を手にしたものの資質という以上に、富者のもとには、ますます富むことができるような大仕掛なプロジェクトが常に舞い込むからです。
こうして富が富者に寡占されるようになります。
貧富の差は都市部においても極端に広がり、多くの下層の者たちは、仕事をいくつもこなさなければ飯が食えない状況となります。
その一方で、富める者にはありとあらゆる権益を持てるようになるのです。
すると、彼らはその権益を最大限利用してますます富み、そうでない者には隷属化が生まれます。
こうして人口の1%の富者と、99%の隷民が生まれます。
これではいけないと、高天原の天照大御神が、「中つ国」つまり地上の国でも高天原と同じ統治をさせなさいと、建御雷神(たけみかづちのかみ)を大国主神のもとに遣(つか)わします。
このとき建御雷神は、波の上に太刀を逆さまに立て、その切っ先の上に大あぐらをかいて、大国主神に次のように言って、国譲りを迫ります。そのときの言葉が次の言葉です。
天照大御神高木神之命以問使之(天照大御神、高木神の命以ちて問い使わせり)
汝之宇志波祁流葦原中国者(汝がウシハケル葦原中つ国は)
我御子之所知国言依賜(我(あ)が御子のシラス国ぞと言依(ことよ)せたまいき)
故汝心奈何(ゆえに汝の心や如何に)
ここに「ウシハク」と「シラス」という明確な言葉の対比が見て取れます。
「ウシハク」というのは、本居宣長によれば「ウシ」が主人のことで、「ハク」は、武士が刀を腰に佩(は)く、つまり自分のものにするという意味の言葉です。
要するに領主もしくは政治権力者が、私的に領土領民を支配し私物化するという体制のことを指します。
たとえば西洋の貴族にとっては、妻は私物です。
けれどその貴族は王様の私物ですから、どんなに美しい妻であっても、王様が「よこせ」と言ったら、献上しなければなりません。
これを美しく描けばシンデレラの物語になります。
しかし多くの場合、当事者たちにとって、それは悲しく辛いことであったであろうことは想像に難くありません。
王による絶対的支配は、その下の貴族層にとっても、民間においても、社会構造としては同じ支配と被支配の関係をもたらします。
そしてその最下層に置かれて人権さえも否定された存在が隷民です。
実はこのことは、近現代においても構造的には同じです。
近代以降は王権神授説などが否定され、民間の選挙によって民衆のリーダーが選ばれるようになりましたが、選ばれた瞬間からそのリーダーは任期中は、ウシハク支配者として、民衆を支配するからです。
高天原は、それが「いけない」というのです。
そして「高天原と同じ統治をしなさい」というのです。
それが「シラス国(知国)」です。
考えるまでもないことですが、高天原は八百万の神々の国です。
簡単にいえば、高天原のすべての住民は神様です。
そこに支配や収奪の関係はありません。
まして奴隷もいません。
なぜなら、みんな神様だからです。
つまり、一部の者が富むのではなく、誰もが豊める社会を築きなさいということが、この「シラス」という言葉に集約されているわけです。
では、シラスは具体的にどのような統治形態になるのでしょうか。
高天原には、最高神として天照大御神さまがおいでになります。
その天照大御神さまは、政治権力者ではなく、どこまでも高天原の最高権威としての存在です。
ですから古事記の上の文にも「天照大御神高木神之命以」とあります。
高木神という政治上の最高責任者が、最高権威である天照大御神さまの名前で、大国主神に国譲りを迫っているのです。
だから「高木神の命(みこと)以(も)ちて」と書かれています。
そして地上世界である葦原中つ国には、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨しました。
その直系の霊(ひ)を受け継がれているのが天皇です。
日本は太古の昔から、天皇を最高権威として、すべての民を天皇の「おおみたから」とする国となりました。
「皇臣民」といいます。
天皇のもとに臣(大臣や閣僚などの政治権力者)も民も、等しく「おおみたから」です。
そして臣は、その天皇の「おおみたから」を預かる立場です。
自分の領土領民を私的に支配するのではなくて、天皇の「おおみたから」が安心して安全に豊かに暮らすことができるように、天皇に任命されて(これを親任といいます)、最大限の民へのサポートをするのが臣の仕事です。
このことは江戸時代も同じです。
江戸時代は徳川政権の時代ですが、そのトップは将軍です。そして将軍は天皇から任命される役職です。
全国のお大名も同じです。
天皇から直接の場合と、将軍からの場合がありますが、一定の領土領民の面倒をみるのが、大名の勤めです。
「大名(だいみょう)」とは「大名主(おおなぬし)」の略です。
名主というのは、その土地や領民を私的に支配する存在ではありません。
天皇から領土領民を預かり、また領土領民を代表し、担当エリア内の全ての人々がその時代において最大限、豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが、名主の勤めであり、大名主である大名の勤めです。
だから「領主」と言わず、「大名」というのです。
このような日本の神代の昔からの統治の形態は、ズバリ言うなら「究極の民主主義」というべきものです。
19世紀以降の西洋生まれの民主主義が、選挙で代表を選びながら、選び終えた瞬間にリーダーをウシハク統治者にしてしまうのに対し、日本の統治はどこまでもリーダーが、天皇の「おおみたから」を預かる立場にあるからです。
このことをわかりやすく述べてみます。
たとえばいま、ガラスのコップで水を飲んでいるとします。
コップは手の中にあります。
そのコップを水を飲むことに使おうが、捨てようが、投げて割ってしまおうが、自分勝手になんでもできることができる状態にあります。
ところがその場所が、たとえばレストランや喫茶店であり、コップもお店のコップであったらどうでしょうか。
コップは自分のものではなく、他人のものです。
お店も他人のお店です。
そうであれば、コップはあまり汚したりせず、あたりまえのことですが、最後はちゃんとお店に返さなければなりません。
つまり、同じコップであっても、それが
「自分のコップ」であるのか、
「他人のコップ」であるかによって、
コップの置かれた処遇は180度違ったものになります。
これが日本の統治の根幹です。
国家は人の集合体ですから、そこにはおのずと得手不得手がありますし、社会的分業が生まれます。
そして大勢の人を統治していくためには、どうしても行政や司法や立法に際して、これを専門に行う権力者、つまり人の上に立つ者の存在が必要です。
その「人の上に立つ者」が、領土領民を私的に私物として支配したらどうなるか。
民衆は私物のコップさながらに、命を奪われたり、財産を収奪されたり、たったひとりの権力者のために、何もかも犠牲にさせられてしまうということが現実化してしまいます。
そこで日本では、はるか上古の昔に、国家の権威と、国家の政治権力を立て分け、政治権力者は、国家の最高権威によって親任されるという形を生み出しました。
国家の最高権威が天皇です。
日本の領土領民は、すべて天皇の「たから」です。
これを「おほみたから」と言います。
漢字で書いたら「公地公民」です。公地も公民も、どちらも読みは「おほみたから」です。
そして権力を親任された者は、天皇の「おほみたから」が、常に安全に安心して豊かに暮らしていけるようにすることが仕事であり使命です。
このことは、民衆の側から見たときに、ものすごく大きな違いとなってあらわれます。
民衆は、むしろ積極的に天皇の権威のもとに庇護されることによって、権力者からの自由を得ているのです。
そして民衆こそが、国家最高の宝であるということが、「おほみたから」という語によって示されています。
「おほみたから」は、漢字では他にも「黎元」とか「百姓」と書かれます。
「黎元」というのは、農作物をつくる人のことを言います。
「百姓」というのは、文武百官という言葉があるように、百は「たくさん」を意味し、姓(かばね)というのは天皇から与えられた栄えある役職のことです。
つまり「百姓」とは、天皇から役目を与えられた名誉ある人々を示す言葉です。
百姓一揆という言葉も、一揆は「心をひとつにすること」を意味します。
ですから天皇から役目を与えられた名誉ある人々が、心をひとつにして木っ端役人何するものぞと立ち上がったのが百姓一揆です。
近年、この「百姓」という言葉が「差別用語にあたる」として、禁止用語になったのだそうです。
どこの国の人が禁止を言いだしたのでしょう。
歴史を知らない馬鹿者の発想です。
さて、権力者が権威と権力の両方を持ち合わせていれば、それは選挙で選ばれようが世襲であろうが、権威と権力の両方を併せ持った時点で「ウシハク」統治です。
「ウシハク」というのは、「うし(主人)がは(佩)く」という意味で、佩くというのは刀を腰に佩くというように、自分の身に付けること、つまり私有を意味します。
つまり主人が私有することをいいます。
ですから「ウシハク統治」は、民衆を私有し、私物化する統治です。
主人にしてみれば、民衆を騙そうが、奪おうが思うがままです。
主人にいかなる不正があろうが、そもそも主人のものなのですから、どこからも苦情が来ない。
それが「ウシハク」です。
そこに「公正」はありません。
あるのは主人の「都合」だけです。
ところが「シラス」では、この状況が一変します。
権力者は常に公正でなければならず、私心を持たずに民衆の安寧のために奉仕する役割となるからです。
これこそまさに「究極の民主主義」です。
日本の天皇を、西欧など大陸の王や皇帝と同じものであるかのようにいう人がいますが、それは違います。
西欧など大陸の王や皇帝は、常に絶対的権威であり、絶対的権力者であり、ウシハク者です。
日本の天皇は、神代の昔から続く万世一系のお血筋であり、国家の最高権威であって最高権力者ではありません。
つまりウシハク者ではありません。
権力者の上位にある国家最高権威であり、シラスご存在です。
これを「しろしめす」といいます。
日本は天皇のしろしめす国です。
そして天皇という存在があることによって、民衆と権力者は人として対等な存在となり、民衆は権力者からの自由を得ているというのが、日本の古くからの形です。
そしてそのありがたさは、「なぜそうなのか」を誰もが知ることによって共有されなければならないことです。
だから「シラス」統治は、漢字では「知」と書かれます。
それが上古の昔からの日本の統治の根幹であり、現代にまで続く日本の原点です。
国という概念には、ステイトとネイションという二つの概念があります。
ステイトとは、統治のための政治的組織を意味します。
ですから江戸時代の日本は徳川ステイトであったし、明治維新以降の大日本帝国は薩長ステイト、戦後の日本国は敗戦利得者ステイト、もしくは米国の隷属ステイトです。
これに対しネイションとは、民族的歴史的文化的結合体としての国を意味します。
日本は、戦後生まれの日本国というステイトであると同時に、縄文以来の、そして天皇の統治する日本としてなら神武創業以来の歴史伝統文化を持つネイション国家です。
このネイション国家日本は、世界最古の歴史を持ちます。
これは世界史的に見たら異例のことです。
なぜ日本だけが、それだけ長く続くことができたのかといえば、その理由が「シラス」にあります。
上に説明した通り、シラスは権力による民衆の私有を抑え、民衆を国家最高権威の「おほみたから」とする究極の民主主義
であるからです。
人類史上、これを実現することができたのは、日本だけであったし、だからこそネイションとしての日本は、ずっと現在でも続いているのです。
ステイトは、その国の歴史伝統文化を無視することはできません。
ですからステイトは、ニ通りに分かれます。
ひとつは、その国の歴史伝統文化を徹底破壊することで成立するステイトです。
これは旧ソ連を筆頭に、共産圏諸国や、南米の諸国に見られることです。
旧文化、つまりその国にあった歴史伝統文化を徹底破壊することで、ようやくステイトが維持されます。
ただし、その国の庶民は、悲惨な目に遭うことになります。
もうひとつは、その国の歴史伝統文化と、ステイトを一致させることです。
これはいまなお続く君主国に多く見られます。
歴史や伝統を大切にし、かつ、政治の役割は民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにすること。
一時的に政治がこれをしなくなっても、君主のもとで自然と自浄作用が働き、軌道が修正されて民衆の安全が守られ流のが特徴です。
とりわけ世界の君主国では、英国を筆頭に日本の天皇のあり方を積極的に学び、今ではすっかり、君主を国家最高権威として、政治よりも上位に置くという構造をとるようになっています。
ですから、国王の下に、政治責任者としての大統領が置かれています。
米国は国王不在で大統領が置かれている国ですが、歴代の大統領が国民をメディアを通じて洗脳して戦争に駆り立てても、あるいはよその国に原子爆弾を二発も落としても、その大統領が更迭されることはありません。
そうした構造が暴走を始めたのが、今の政権で、就任直後から、世界は567やお注射や、露ウ戦争、コオロギ問題、LGBT問題、農業解体など、世界は大混乱に陥っています。
古来、政治において悪と正義が戦うと、必ず悪が勝利してきたのが人類社会の歴史です。
そうであれば、正義や悪よりも、もっと上位に何が正義かを示す国家最高権威が必要なのです。
ChatGPTという公開AIががあります。
そのAIに、
「国家政治権力者よりも上位に、国家最高権威者を置き、国家最高権威者によって国民を最大の宝物とたとき、政治的にはどのような影響が考えられますか?」と質問してみました。
以下がその答えです。
***
国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることが政治的にどのような影響を与えるかは、その国の政治体制や文化、歴史的背景などによって異なります。
一般的に、国家最高権威者が国民を重視することは、以下のような影響をもたらす可能性があります。
1 国民の利益が政策の最優先事項になる
国家最高権威者が国民を最大の宝物と位置づけることで、政府の政策決定において、国民の利益が最優先事項となる可能性があります。
これにより、政府の政策や行動が国民の幸福と繁栄に直結するようになり、国民の信頼を得ることができます。
2 政治的安定が促進される
国民を最大の宝物とすることは、国民に対する配慮が強まることを意味します。
政治的には、国民が政府に対して信頼を持つことで、政治的な安定が促進される可能性があります。
政府の政策が国民の利益に沿っていると認識されることで、政府に対する支持が高まり、社会的な不安定要因が減少する可能性があります。
3 政府のレベルが上がる
国民を最大の宝物と考える国家最高権威者は、政治家や政府の職員にも同様の配慮を求める傾向があります。
そのため、政府のメンバーや公務員が国民の利益を最優先事項とすることで、政府のレベルが向上する可能性があります。
4 国際的な信頼性が高まる
国民を最大の宝物と考えることは、国内のみならず国際社会においても重要な価値観です。政府が国民を最優先事項とすることで、国際社会においても信頼性が高まり、国際的な協力関係や外交交渉において有利に働く可能性があります。
以上のように、国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることは、政治的に多くの良い影響をもたらします。***
日本は、世界最古の国であるとともに、人類史上最も進んだ社会を築いたネイション国家です。
そのネイションと、日本のステイトを一致させていくこと。
これを一滴の血も流さずに実現していくこと。
それが、現代を生き、そして子や孫たちの未来に責任を持つ大人たちの責務です。
※この記事は2020年7月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
日本をおもしろく!お読みいただき、ありがとうございました。
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【次回以降の倭塾】第102回倭塾 2023/6/25(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
靖国神社昇殿参拝 2023/8/12(土)10:30〜12:00
第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
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