しっかりと事実を見極め、そこから解決策を見つけ出していく。 それが問題解決の技法であり、未来を啓く知恵です。
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画像出所=https://www.ac-illust.com/main/detail.php?id=2027507&word=%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%A8%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF&searchId=4249233693#_=_
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日本をかっこよく!よく言われることに、
「根拠となる出典を示せ」というものがあります。
大学等で論文を書く場合、この「根拠となる出典」は、論文に必ず必要になるものとされています。
これが書かれていないだけで、論文として不適切と言われたりもします。
なるほど、何らかの論を述べる場合に、その「根拠」は必要です。
それがなければ、ただの「思い込み」や、「ジジイのたわごと」の域をでなくなるからです。
問題は、その「根拠」と「出典」が並列にされている点です。
「根拠」とは、論拠となる「事実」のことを言います。
「出典」は、誰かが「事実」から導き出された論を述べたものです。
「論」は、その人個人の「意見」にすぎません。
「いやいや、みんながそう言っている」というのも、子供が言っているのと同じで当てになりません。
なぜなら意見は、人それぞれだからです。
100人いれば、100通りの意見があってあたりまえです。
当然です。人それぞれ、感じ方が違うからです。
出典となるものは、現実には、先に誰かが書いた意見にすぎません。
アインシュタインの相対性理論だって、現代では多数の異説が提案されています。
ニュートンの万有引力の法則も同様です。
ブルーノ・マーズは、世界的人気のミュージシャンですが、彼のミュージック・:ビデオの動画をyoutubeで観ると、人気の動画は全世界で49億回も再生されています。
https://youtu.be/OPf0YbXqDm0動画を御覧頂いたらわかりますが、いいねの数が2063万件、いまでは「良くないね」の数は表示されなくなりましたが、表示されていた頃には「良くないね」が100万件以上もありました。
世界で49億回も再生され、世界で2千万人以上もの人が、素晴らしい!と思ったのに、わざわざこの動画を見に来ながら、100万人以上の人が良くない!と感じたのです。
これが何を意味しているかというと、ひとことでいうなら、「意見は人それぞれ」ということです。
ちなみにネット社会では、リアルと違って「いいね」と「良くないね」が50:50というのが、最も理想的なカタチです。
リアル社会では、批判をされたり反対意見を出されたりすると、なにやら問題視されたり、当事者は悲しい気持ちになったりするものですが、ネットの場合は、むしろ「いいね」ばかりは不健康な状態です。
なぜなら、それは特定のファンからしか支持されていないことを意味するからです。
「良くないね」が付くということは、反対意見の人も気にして見に来てくれているわけですから、これはとてもありがたいことです。
そのような人たちが、先々ファンになっってくれるかもしれないし、何より物事を常に批判的にしか見ない人も世の中にはいるのです。
そういう人たちも、気にして見に来てくれているということは、ネット社会ではとても良いことなのです。
ちなみに日本では、近代の慣習として、目上人向かつて無礼をしてはいけない、問われるまでは答えず、仰せがあれば謹んで聞けというのが礼儀です。
けれど欧米圏では、反対尋問を経由しないものは信頼性が低いとされています。
たとえば会社の社長、たとえばスティーブ・ジョブズが、新しい事業展開について社員に説明をしたとします。
このとき、部下たちが何も反論しないで、ただ黙ってジョブズの言うことを聞くのなら、その者は役立たずとみなされます。
部下たちからいくつもの反論が出され、それらをジョブズ氏が堂々と論破して、はじめてその事業展開が社員たちみんなのものとなります。
そして実はそうした文化は、古い時代の日本では、むしろあたりまえとされてきたことです。
なぜならそれは聖徳太子の十七条憲法に書かれています。
「それ事(こと)は独(ひと)りで断(さだ)むべからず。
必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつら)ふべし」
「論(あげつら)ふ」というのは、現代用語に直したら、議論する、ということです。
たとえどのような偉い肩書の先生が書かれた本であっても、そこにあるものは単にその先生の「自分はこう思う」という意見にすぎません。
ちなみに日本の大学では、教授が著書等に基づいて講義をし、生徒たちは黙ってその講義を拝聴し、講義内容が試験に出ます。
けれど欧米の大学では、宿題でその本を先にまるごと読んでこいとされ、授業では、その本の内容に対して「自分はこう思う」という意見が求められます。
教授はその意見に反駁し、生徒と教授との間で丁々発止の議論が交わされる。
それが大学教育とされます。
世界では、ただ教授の言うことを鵜呑みにするだけしかできない人材は要らないのです。
教授の言うことをきっかけとして、そこから自分の頭で考え、思考を膨らませ、新しい時代を開拓できる人こそが求められているのです。
そして日本では、たしかに過去、そのような教育が行われていたのです。
これが幼年教育と、高等教育を行う塾や藩校の教育との違いです。
たとえば「西暦1600年に関ヶ原で東軍と西軍の激しい戦いがあったことが複数の史料で確認できる」という客観的事実があります。
けれど、ではどうして家康はこのとき戦いを選択したのでしょうか。
その理由を自分の頭で考えさせるのが高等教育としての歴史教育です。
もちろんそれにも諸説あります。
しかしそれらはすべて、意見にすぎません。
ならば、自分ならどう考えるのか。
大事なことは、事実に基づいて自分の頭で考える習慣にあります。
あるいは幕末に動乱があったことは、様々な史料で確認できます。
けれどこのときの争いが、「尊王攘夷派と、佐幕開国派に分かれて国論を二分した争いであった」とするものは、これは単に意見にすぎません。
なぜなら、幕府もまた尊王であったといえるからです。(←これもまた意見です)
もちろん、そうした意見をもとに、自分の考えを構築することもできます。
しかし、そうやってきたけれど、問題の解決ができなくなった、あるいは、どうにも矛盾が広がってしまってきた・・・このようなことが起こることもあります。
要するにボタンの掛け違えです。
家康が、権力欲しさに関ケ原の戦いを起こしたのだ、という意見が、戦後の一時期を席巻したけれど、少し考えたらわかることだけれど、当時の大名というのは、それぞれが独立採算です。
権力に取り憑かれて頭のおかしくなった爺ぃの言うことなど、誰も聞く耳持ちません。
それぞれが家臣を抱え、領民の幸せに責任を持っているのです。
ジジイのたわごとにつきあっているヒマなど、あると考えるほうが、むしろ異常です。
そうであれば、では事実はどうであったのか、この時代に、何が起きたのか、それを原点に帰って知りうるかぎりの事実を調べる。
そうして得られた事実をもとに、自分の頭で歴史を再構築する。
要するに自分なりの考えを構築することが大事なのです。
そうであれば、出典など出しようもないのです。
出せるのは客観的事実だけです。
それ以外は、すべて意見です。
つまり、「どこかで誰かが書いた出典」なるものが、「歴史上の事実」ではなく「誰かの意見」であれば、それは、
「他人様の意見を論拠にしなければ、自分の意見を持ってはいけない」
と言っているのに等しいということです。
これを古い言葉で、「屋上屋を架す」といいます。
たいせつなことは「事実」です。
「三別抄(さんべつしょう)は高麗の正規軍で、元寇を遅らせた」と述べる人がいます。
言っているのが、れっきとした肩書のある先生であり、そう書いた本も出ています。
けれど、事実を調べてみると、その三別抄は、元と高麗の正規軍によって逮捕処刑されています。
三別抄が正規軍なら、どうして高麗の正規軍によって討伐されているのでしょうか。
そもそも三別抄の「抄」という字は、もともとの「盗む、没収する、ひったくる」という意味の漢字です。
つまり「三つに別れた抄」というのは、三つの強盗団、野盗団のことをいうのです。
名前に、ちゃんとそう書いてあります。
にもかかわらず、三別抄のことと誰かが「立派に元と戦った高麗の正規軍であったのだ」と書いてあったら、その説に則ってでしか意見を述べることができないのでしょうか。
あまりにも馬鹿げすぎです。
そもそも事実認定に不備があって、ちょっと考えただけで、誰にでも「おかしい」とわかるようなことを、論拠にしなければならない、という方が、どうかしているのです。
もちろん、だからといって、何の根拠もなしに、デタラメを述べて良いということにはなりません。
あくまで、認定された事実に基づいて分析し判断する。
そしてこのとき、事実と意見をしっかりと分けて考える。
実はこれは、よく知られた「問題解決の技法」です。
問題はつねに、これまのやり方から生じているのです。
そうであれば、それまでのやり方の延長線上には、同じ問題が必ずあります。
だから、原点に帰って、事実だけを拾い集めて、それを問題解決のために再構成する。
そうすることで、同じ問題が二度と起こらないようにしていくのです。
戦後の日本が、日本的精神性を失ってしまっていると、よく言われます。
そうであれば、あらためて日本的精神性を、歴史や古典に求め、それらを再解釈していく。
当然、従来とは異なったアプローチになるし、ことなる回答が生まれます。
その回答を、強制する気はまったくありません。
そんな次元の低い話ではなく、
「これまでこのように言われていたけれど、
誰が考えても、それっておかしいよね。
そこで事実に基づいて再考してみると、
こういう見方もできるよね」というのが、ねずブロであり、私の出演している動画における主張です。
それよりも、誰かが言っていることが真実であり、その真実以外は一切認められないという考えこそ、異常です。
なぜならそれは、全体主義、ファシズムそのものだからです。
もちろん、そういう全体主義が好きな人もいます。
だから、そういう人たちを否定しようとは思いません。
でも、自分では、そうはなりたくないし、そういう人たちとは、あまりお友達になりたくない。
もっと、常に、自由でありたいと思っています。
実は、情報化社会の中で、いちばん大切なことがここにあります。
「事実」を正確に掴み取ることです。
たとえば、スマホを利用していると、情報を全部抜かれるという心配があります。
事実は何かというと、クラウド上にスマホのデータが全部アップロードされるという現代の仕様にあります。
ということは、サーバーの管理者は、それらのすべてのデータにアクセスできるわけです。
恋人のヌード写真をこっそりスマホに入れていたら、それは(すくなくともサーバー管理者にとっては)公開情報と同じで、ぜんぶ見れてしまうのです。
それが嫌だからと、スマホを持たないという選択もありますが、あと50年もすれば、人はその精神を、直接ネットに接続することができるようになります。
100年もしたら、あらゆるセキュリティは無効になる。
するとどうなるかというと、現代の感覚で言ったら、銀行口座にある残高のすべてが人類にとっての共有財産になる、ということです。
つまり、1億円のベンツがほしいと思ったら、誰でも買える。ホームレスでも買えてしまうことになります。
お金は使いたい放題になるのです。
欲しいものは何でも手に入る。
それは誰もが、そのようになるわけです。
人は、手に入らないから欲しいと思うのです。
手に入ると、すぐに飽きてしまう、そんなことは、昔からよく言われていることです。
ネット上にある情報(お金も情報の内です)のすべてが、人類の共通財産になるとすると、価値あるものは、むしろお金では買えないものになっていくと考えられます。
つまり、時代はこれから大きく変化していく。
その変化のための道筋をどう付けるかが、これからを生きる人々にとって重要なことになるし、そのことについての積極的な議論が、現代の最先端の課題となるわけです。
凝り固まった頭や、従来の歪み(貨幣経済も行き過ぎると歪みになります)に拘泥されず、意見に惑わされないで、しっかりと事実を見極める。
そうしたことの訓練のために、歴史があり、古典があります。
それは現在の問題を解決し、より良い未来を啓(ひら)く知恵です。
こうしたことが「事実」と「意見」を混同すると、まったく見えなくなる。
ゆめゆめ気をつけたいところです。
※この記事は2021年7月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
日本をおもしろく!お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
渡辺
『知識』は他人が作った道具と同じ、自分自身の経験から身についた『知恵』が核になければ役には立たない。例えば、火おこしの材料とやり方を知識として得たところで、実際にできるか。晴天の乾燥した日、雨模様の湿度の高い日、条件が変われば加減も変わる。この『感覚』が身についていなければ、知識はただのお飾りに過ぎませんし、いくら表面を飾ったところで中身はないに等しい。この借り物をさも自分のもののようにひけらかす恥知らずも結構おりますね。知恵があってこそ知識が生かせる。本物の教育が期待できないなら、親なり本人が意識的に学んでいくしかありません。
2023/07/14 URL 編集
ewkefc
https://nezu3344.com/blog-entry-5658.html
>「根拠」とは、論拠となる「事実」のことを言います。
例えば、証言も根拠になります。ただし、科学的根拠に比べて証拠能力が低いです。
事実は必ずしも真実とは限らないのです。
>「論」は、その人個人の「意見」にすぎません。
結論は前提から導き出されたものであり、その結論の正当性を支えるのが根拠です。
ただし、根拠の証拠能力が乏しい場合は、導き出された結論は必ずしも真実とは限らないのです。
社会に出て意見を言う場合は根拠のある結論、つまり論理的意見が求められます。
ですから、日本国では小学校から論理的思考力及び表現力を学びます。
2023/07/14 URL 編集