楠木正成と七生報国

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楠木正成


「生命尊重のみで。魂は死んでもよいのか。」

冒頭、いきなりお堅い言葉となりましたが、この言葉は、三島由紀夫の「檄」にある言葉です。

誰だって死にたくはない。
しかし、日本人としての魂を失って、なんの意味があるのか。

そのことを、楠木正成の物語の中で考えてみたいと思います。

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楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将です。

鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称されました。

楠木正成の出自は、まるで謎です。

日本史上、非常に有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物はほかにいない。

楠木正成が、確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどの間の物語に過ぎないのです。

楠木正成は、もともとは河内一帯を中心に、水銀などを流通させていた豪族のようです。この水銀の利権をめぐって幕府と対立したことがきっかけ、という説もあるようですが、真偽は不明です。

時は、鎌倉時代末期です。

元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はない。幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。

民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたといいます。

1331年、みかねた後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵した。

しかし、世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍事力は強大です。
世の武家や豪族たちは、世の中の乱れを憂いながらも、倒幕となると恐れをなした。

「世の中をなんとかしたい」

あせる後醍醐天皇のもとに、駆けつけた数少ない武将の中にいたのが、当時37歳の楠木正成でした。

後醍醐天皇は、楠木正成に質問します。

「勝てる見込みはあるのか?」

正成は答えます。
「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。
しかし、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は必ず生じます」

そうはいっても正成の兵力はわずかに500余騎。

これに対し、幕府は数万の討伐軍を差し向けます。

鎧兜に身を包み、きちんと重武装した幕府軍に対し、正成軍の将兵は、まるで野武士の集団。

兜もなく上半身が裸の者もいた。

粗末な山城を見た幕府軍の武将は

「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。
せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ!」と声を荒げた。

武功をあせった幕府兵は、総員総攻撃を敢行します。

兵が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。

ところが、兵が斜面を埋めた瞬間・・・・

ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出した。

幕府兵の頭上に、岩や大木が地響きをあげて転がってきた。

1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲作戦を行ったのです。

この初戦だけで、幕府側は700名も兵を失う。

そして、楠木正成軍は、藁人形であざむく、熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞をかけた)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄した。

やむなく幕府軍は、力押しをやめて、いったん兵を引き、城を包囲して持久戦に持ち込んだ。

山城にとどまる正成軍の食料は、20日で底をついた。

そこに、京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った。

正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらまします。

鎌倉幕府側の武将たちは、誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考えます。
そして、
「敵ながら立派な最期だった」と言い合った。

このように従来の価値観で動かず、舌を出してさっさと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁で、後世、特に江戸期に楠木正成は大人気となります。

ここまでが、有名な「赤坂城の戦い」です。


翌1332年、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現します。天下の大悪党ここに現る!という感じだったようです。

これに対し北条氏は、幕府最強とされる先鋭部隊を差し向けた。

楠木正成側の兵力は、このとき幕府精鋭部隊の4倍。
臣下は「一気に踏み潰しましょう」と正成に進言します。

しかし正成は、
「良将は戦わずして勝つ」
と提案を退け、謎の撤退をします。

幕府の精鋭部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領した。

ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。

しかし夜が明けても正成軍に動く気配はない。

次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。

「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」

4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退した。

実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いただけのものだった。

正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利する。


翌1333年2月。

幕府は8万騎の大征伐軍を編成し、目の上のタンコブの正成追討を図ります。

迎え撃つ楠木正成の軍団は、わずか千人。

楠木正成は、山奥の千早城(いまの大阪府南河内郡千早赤阪村千早の辺り)に篭城します。

幕府軍はこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。
やばい相手には、やはり2年前の赤坂城と同様、兵糧攻めが一番と、千早城を取り囲みます。

ところが・・・・

今回は勝手が違った。

なまじ8万もの大軍であるがゆえに、先に餓えたのは、包囲している幕府軍だったのです。

正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、
「千早城そのものが囮(おとり)」
という前代未聞のものだったのです。

山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。

やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった。(千早城の戦い)



8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わります。

「幕府軍、恐れるに足らず」

これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始めます。

ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞などの源氏直流の大物豪族たちが公然と反旗を翻し出した。

足利尊氏は、京都の幕軍を倒し、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取ってしまった。

楠木正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させた


ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、楠木正成は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行ないました。

この供養塔で、彼は“敵”という文字を使わなかった。
代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使った。

そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくした。

味方の勝利におぼれ、敵のことなどいっこうに顧みない戦国武将が多い中で、こうした楠木正成の誠実な人柄は、際立っています。この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。


楠木正成は、同年6月、隠岐へ流されていた後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めます。

翌1334年。

後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートする。

楠木正成は、土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命された。

後醍醐天皇は、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうという理想のもとに、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。
また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。


朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。

京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃ち、尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。

楠木正成は、この勝利を単純に喜ばなかったといいます。

なぜなら、逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わり、一緒に去っていった。

「天皇方の武士までが、ここまで尊氏を慕っている・・・」

新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に、涙ながらに進言します。

「どうか尊氏と和睦して下さい」

ところが、公家達に、これが通じない。

「なぜ勝利した我らが、尊氏めに和睦を求めねばごじゃらぬのか。不思議なことを申すものよ」
正成は、公家たちに嘲笑され、罵倒されます。


1336年4月。

いったん九州に疎開した後、多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始します。

後醍醐天皇は「湊川で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
湊川というのは、いまの神戸です。


“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢です。

正面からぶつかっては勝てるものではありません。

楠木正成は、

「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めします。

帝は比叡山に移ってください。

京の都に尊氏軍を誘い込んだ後、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」

と進言します。


これに対し公家たちは「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」と反対し、案を却下する。
有事と平時の区別がつかなかったのです。

失意の中、楠木正成は、湊川に向かって出陣します。

このときすでに天皇の求心力は無きに等しかった。

尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700です。
戦力差は何と50倍です。

正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。

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この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。
かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。
民の心は天皇と通じていたのです。
しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。
正成、存命無益なり・・・
------------------------------

彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈った。


5月25日。

湊川で両軍は激突します。

海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなった。

そのため正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいる始末。

最早、戦力の差は歴然としています。
誰もが、即座に勝敗がつくと思われた。

しかし足利尊氏は、正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らない。

尊氏にしてみれば、今でこそ両者は戦っているけれど、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同じ仲間。楠木正成ほどの男を失うのは、いかにしても惜しい。惜しすぎる。

足利尊氏は、何とかして正成の命を助けようと、正成へ再三降伏勧告をします。

しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返す。

このままでは自軍の損失も増える一方です。

尊氏はついに一斉攻撃を命じた。



6時間後・・・・

正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。

正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺した。享年42歳。

このとき正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。旧字体では“七生報國”

最期をさとった正成が、弟正季に「何か願いはあるか」と問いかけたとき、正季は

「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」

と答えた。

正成は、「いつかこの本懐を達せん」と誓った。

そして兄弟刺しちがえて自刃した。


正成の首は、一時京都六条河原に晒されたけれど、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。

尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。

「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」


尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱った。

正成は、死後300年近くも、朝敵の汚名を着せられたままとなった。

たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーとされた。


その楠木正成を、再び世に出したのが、水戸黄門で有名な、水戸光圀です。

光圀は、1692(元禄5)年、大日本史を編纂中、水田の中にあった小さな塚に正成の偉業を称え建立し、“嗚呼忠臣楠子之墓”と自書した墓碑を建立した。

ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎です。

光圀は、

「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」

と、正成の名誉回復に努めた。

墓の傍らには水戸光圀像もあります。


たとえ逆賊の汚名を着ても、主君に忠義を捧げつくす。

楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」と慕われ、

「七生報国」は、「忠君愛国」「滅私奉公」とともに、旧日本軍日本人の精神として受け継がれました。

人間魚雷「回天」出撃の際には、正成の軍旗に記されていた文字「非理法権天」と書いたのぼりが掲げられ、その本体には楠木一族が用いていた紋所の「菊水」が描かれました。

「非理法権天」というのは、”非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味です。

つまり、天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない。だから人は天道に従って行動すべきである、というものです。


人を思いやり、和をもって貴しとなす日本という国の文化や伝統、誇り。

たとえ相手が自分より数十倍上回る敵であっても、勇猛果敢に戦いに臨む精神。

そしてその誇りと精神を守るために「七生報国」を合言葉に大切な命を捧げられた246万の英霊たち。

今年もお盆の季節がやってきました。

お盆は、亡くなられた方々の魂が、この世に舞い戻るときでもあるそうです。

もちろん、英霊たちも、いま、陸続と戻ってきている。

私たち現代を生きる日本人は、そうした英霊たちの心に恥じない日本を、後世のために残して行かなければならないのではないか。そんなふうに思います

英霊に恥じぬ日本を!と思う方
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日本人とシナ人(中国人)の違い
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コメント

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おっさん

No title
久々に、湊川神社にお参りしたくなりました。
いまも、小銭入れに湊川神社のお守りをつけています。
楠木正成の心を今こそ日本人は思い出すとき。

遠藤

No title
足利尊氏は悪者のようにいわれているが、討ち捕った楠木正成の首級を丁寧に扱ったというのは武士の誇りを忘れていなかったということでしょうね。こういう心を持っていたのが日本民族であるということは世界にしっかり伝えていってほしいものです。

ずっと前に来た人

No title
光圀公の尊王を不思議がる人もいるようですが、不思議ではないですよね。
戊辰戦争に関する、悪質左翼のミスリードによるものなのか、”菊vs葵”的な見方をなさる方がいらっしゃるのには、残念に思います。
武家政権の世になってからも、大筋で見れば、皆、尊王なのです。
ただ、政治手法といいますか、今回のエントリーにある楠公の建策に対する仕打ちにもみて取れるように、公家さんの意見がマイナスに働く局面も、国家指導を行ううえではままあったわけでして、そこを上手にかわすための方策として、江戸幕府は朝廷に対し、あのような策をとることになったのです。
確かに、帝にも公家衆にもつらいものだと認識しますが、さりとて徳川家の面々が”反帝”であるはずもありません。
そんな性格のものだったら、勢いのあるうちに完全な支配者となっていたことでしょう。
ですので、徳川家は尊王です。
中でも、水戸には”より尊王”の流れができて行ったと思います。
幕末の俗に云う”天狗党の乱”、あれなどその証拠です。

よのすけ

若い世代に語り継ぐべきお話
簡潔で分かり易く,しかも心に残る。
ねずきち様,有難うございます。
若い世代に語り継ぐべきお話です。

生命尊重だけでいいようですよ。
2学期の始めにあったって
チューリッヒ日本人学校 校長 0田0彰
皆さん、夏休み中けがや病気はありませんでしたか。楽しく過ごせましたか。さあ、 楽しい思い出をエネルギーにして元気に2学期を始めましょう。
さて、今日は8月16日。昨日、8月15日は何の日だったでしょう。中学生の皆さ んは知っていることと思いますが・・・・。この日は、日本人にとっては忘れてはなら ない日なのです。私は、まだ生まれていないときのことで、この日がなければ、私はこ の世にいなかったかもしれません。もう、わかりましたか。昭和20年(1945年) 8月15日は太平洋戦争が終わった日ですね。
昭和16年12月8日に日本はアメリカと戦争を始めました。「ア メリカと戦争をしても力の差がありすぎて負けてしまう、絶対に戦 争をしてはいけない」と思っていた人もいたのですが、軍指導者、 政治やマスコミに関わる人の多くが、戦争をする方向に日本をもっ て行ってしまったのです。それが日本のためであるということで。
最初は日本が有利に見えたときもありましたが、すぐに攻められ るようになりました。しかし、軍や戦争を進めている人たちは、悪いことは隠し良いニ ュースや嘘のニュースを流し続け、多くの日本人は本当に大変な事になっていることを 知りませんでした。そして、昭和20年8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が落 とされました。それでも軍の人たちの多くは、たとえアメリカ軍が日本に上陸してきて も、まだ戦おうとしていたのです。
このような中、8月15日、天皇陛下はラジオ放送で国民に戦争の終わりを告げ、3 年と8ヶ月あまりの太平洋を舞台とした戦争は終わりました。この間に、一般の国民約 80万人を含め、310万人の日本人が亡くなったと言われています。日本以外のアジ アの国の人々等を加えると 2000万人の犠牲者がいると言われています。(資料により 違いがありますが、日本人は300万人以上が犠牲になっているようです。)

椿

生命よりも大切なモノを知っている、日本人!
生命尊重のみで。魂は死んでもよいのか。」

恐れながら、激しく同意!!です。三島由紀夫氏は、アメリカの半属国となるやもしれぬ“日本の命運”を見抜き、警笛をならしていたのですね…。その慧眼は、同じ名前(由紀夫)でも、あの鳩山由紀夫とは、えらい違いです。人間としての格も違いますし…。

それにしても、西国武士も何と立派な!武士と言えば「板東武者」というように、東・東北が十八番のような感じで、西側(関西)は、主に「文化・芸術」が十八番だと思っていましたが、なんのなんの、楠木正成公親子・兄弟の“武士の中の武士精神”に感動です

それに、あの茶人の千利休も大阪堺の出身で、外見は物静かな茶人でしたが、内面は、武士(もののふ)の気概にあふれてていたと聞いた事があります。それ故に、太閤秀吉と衝突したとか…、詳細は分かりかねますが…。

しかしながら、あの「赤坂城の戦い」、「天王山の戦い」、「千早城の戦い」は、圧巻ですね。特に、「赤坂城の戦い」は大笑いさせて頂きました。誠を貫く主君への忠誠心、敵をも魅了する厚い義侠心、そして…、思いもつかぬ奇抜な戦略!うーん、感服です!この奇抜なアイデアは、関西人特有の“ユーモアーの精神”から、発しているのでしょうか? 実にお見事です!まったく憎めない!

源平合戦の時にも、確か・・・、源義経が千尋の谷でしたか?そこを馬でななく、鹿を使って駆け降り、思いもつかぬ奇抜な戦略で、驕る平氏を打ち負かし、また、織田信長は、「桶狭間の戦い」で同じような奇襲作戦を使い、天下統一の第一歩となったし、太閤秀吉も色んな奇抜なアイデアで、勝利していましたよね?…実に面白いです。

いずれにしても、既成概念に捉われず、また勝敗にかかわらず、“己の熱き信念”を貫き通し、真っしぐらに突き進んでいく。まさに、敵ながら“あっぱれ!”と、賞賛したくもなるでしょう

度肝を抜く奇抜な戦略が、ある意味、少しだけシナに似ているように見えますが、全くシナと違う点は2つ、まず1つ目は、楠木公の戦略に『残虐性がない』ことです。 確かに、糞尿は臭いかもしれないけれど、シナのように鼻を削ぎ、目をくり抜き、性器を切り取って口に押し込むというような、心の底から憤るような残虐性が皆無です。むしろ、「臭かっただろうなぁー」と笑えますし、さほど命に危険がありません

そして、2つ目にはやはり、『敵兵を敬う武士道精神』です。>敵・味方の戦没者を弔うために、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なう<←実に素晴らしい精神だと思います。

もし仮に、楠木正成公の“忠義の精神”だけでなく、彼の既成概念を取り払った“奇抜な戦略”を、当時の謹厳実直で真面目な日本軍が、取り入れていれば、また戦局も変わったかもしれませんね。あくまで、推測の域を出ませんが…。

私も生きている間に、この楠木公親子・兄弟に倣い、「七生報国の精神」で、愛する祖国日本の為に、何か一つでも御役に立てれば…と思います。





No title
まだ見られていない方へ

「民主離れ促進プロジェクト」の動画
http://www.youtube.com/watch?v=cduQh6vpF0U&hd=1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7909565

【麻生内閣総理大臣と鳩山民主党代表の党首討論】 http://www.nicovideo.jp/watch/sm7916254
http://allatanys.jp/S001/ex31000.html

拡散お願い致します。

No title
http://www.nicovideo.jp/watch/1250156279

マスコミが公共の電波を使って
自民党つぶしの遊びをしている

森元首相談話

bb

図南さん
ここに何しに来てるの?触るのよそうと思ったけど、邪魔なんですけど。

人を馬鹿にするのもいい加減にしなさい。

ねずきちさん、ご無沙汰でした。たぶん私のように気短をからかうために来ているのでしょう。図南。私はこういうタイプの上から目線、慇懃無礼が大嫌いで、喜ぶの判っていて、ついつい。失礼しました。

図南、絶対に返事しないでください。

愛信

台湾原住民が靖國神社拝殿広場に突入(1)
8月11日、観光の参拝客を装って靖国神社を台湾人の一向が訪れた。
有名な反日活動家、高金素梅に率いられた50名ほどが拝殿前まで進み、大声
を挙げてスローガンを叫び出し、大慌ての神職、警備員に暴行を働き、一時期
拝殿前を占拠した。

詳細は【 酔夢ing Voice 】をカッチとね
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/125554606.html
【動画ニュース掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi

通りすがり

出典
出典はどこなんですか?

図南

歴史教材に是非!
素晴らしいお話、素晴らしい文章でした。
必要最小限の言葉と表現で淡々と語っているのに、熱情が感じられる。その光景が目の前にあるようなリアルさがある。

少数で多数を破る天才的な戦術家としての一面。戦争の勝利を首の数で判断しない視野の広い戦略家としての一面。民心を失った朝廷にすら一途に忠義を尽くす武士としての一面。

能力ある人間は、脳あるが故に勝ち馬に乗る的な行動をとる場合がある。どちらが有利か不利か分かってしまうから。有利か不利かは関係ない。敵が弱小か強大かも関係ない。善悪すら関係ないのかもしれない。うまく言葉にできないけどもっと上位の行動基準がある。

比較対象は悪いが、民主党支持を表明した橋本知事や中田市長は口ではお利口さんの発言をする。理屈としては正しいのかもしれない。でも何か違和感がある。正成は違う。心から「かっこいい」と思う。その行動に憧れてしまう。きっと外国人(特に中韓)は理解できないし、そう思わないのだろうな。

正成がどのような気持ちで最後の出陣をしたのか。「一生目」の報国の仕上げ、「二生目」への決意だったのか。命を捧げてなお、忠義が足りないというのか。一体何が正成をそこまで駆り立てるのか。己の小さな生き方と比較して考えさせられます。

最後の水戸光圀と介さんの話、思わず「へぇー」と言ってしまいました(笑)。

ねずきちさんのブログ、日本史の教科書(もしくは教材)にすればいいのに。中韓や民主党の批判部分は黒く塗りつぶして(笑)。

文字の羅列に過ぎない教科書なんかより人としての魂が感じられる「ねずきちのひとりごと」の方が、歴史を学ぶ意欲が100万倍湧くと思うなあ。理屈だけで人の歴史が築かれたわけでないことをいつも教えてくれます。

衆院選の世論調査についての疑問
こんにちは。
気になることがありましたので、お知らせします。
楠正成に関係ないことですみません。

以前電話による選挙の世論調査の電話(テープ)を母が受けた時の事なのですが。
その時にどの党を支持するかというところで、印象操作なのではないかと思われることがあったので。

下記がその電話内容です。

1.選挙に行くか、行かないかを聞かれた。→ 行くの番号を押した。
2.自分の住んでいる地域のどの候補者に入れるのかを聞かれた。自民、民社それぞれの候補者を
→わからないの番号を押した。
3.どこの党を支持するかを聞かれた。 
 最初『自民党』から始まり、『民社党』と続き、他の政党の名が並び、わからないがあった。
 →わからないの番号を押した。
 するといきなり、
『 民主党』は何番ですと、いきなり『 民主党』の番号をテープで流してきたのです。わからないと既に回答したのに。

4.母は、それを聞いて気持ちが悪くなってきたので、そのまま電話を切りました。
 なので、それ以上の内容は知りません。

支持政党がある人は仕方がないけれど、その以外の人は何が何でも『 民主党』いれてしまいたい。という意図を感じました。 

こういう事があった例はないのですが、わからないという入力がうまくされていなかったので、
もう一度初めから政党名を聞かれたのかとも考えてみて、母に確認をしてみました。
でも何度聞いても最初に聞いてきた政党名は『自民党』で、次に聞いてきたのは、『自民党』を抜かした『民社党』なのです。
母は、相当ショックだったようです。
回答したのに再度聞かれたこと。自民を抜かして、民社を聞いてきたこと、抜かした抜かしたと何度も言っていました。

●こういうことって、非常におかしいし、印象操作といえるのではないでしょうか?
●何か誘導尋問をされているような気にしかなれません。
●又、政党名を2度いうことによってさりげなく、『 民主党』を印象付ける狙いもあるのではないでしょうか?
●さりげなく民主党を人に刷り込み、
●驚いてつい『 民主党』を押してしまう人もあるいはいるかもしれないと思ってしまったのは、私の考えすぎでしょうか?  

このような事をしたのが、どこなのかはわかりません。
でも、いづれにせよ、民主党に勝ってほしくてたまらない組織なのではなのでしょう。卑怯卑劣と思います。
この異様な電話は、私の選挙区専用のものです。新興住宅地の為ご近所づきあいが殆どないので、聞くことができませんが、沢山の方がこの電話を受けていることでしょう。
何か、世論調査の時点でもう公正ではなく、誘導しているとしか思えません。

このことは、一応いろいろな所に知らせるつもりですが、出来ましたら、皆さんも広めていただけないでしょうか。お願いします。

長文ですみません。

八目山人

No title
高校の書道の先生が、息子正行との「桜井の別れ」を話してくださり、その後で「青葉茂れる桜井の~~」と歌われました。
別の機会には、校庭に有った和気の清麿の碑の解説もしてくれました。
昭和30年代ですが、昔は、このような先生が結構いらっしゃったと記憶しています。
昭和45年ごろを境に、世の中が変わって行ったと記憶しています。

tamago

No title
< 完全版 >
【8.6田母神講演会】ヒロシマの平和を疑う 1
www.youtube.com/watch?v=l9rdS0x8kRU

【8.6田母神講演会】ヒロシマの平和を疑う 2
www.youtube.com/watch?v=qRxALHW-MgI&feature=video_response

【8.6田母神講演会】ヒロシマの平和を疑う 3
www.youtube.com/watch?v=2RypSKocZAQ&feature=video_response

「8.6 田母神講演会 ヒロシマの平和を疑う!」完全版を全編特別公開することにしました。
ご家族やご友人、会社の同僚やご近所の方など、一人でも多くの方に御覧頂けますようお願いいたします。

あきつ

No title
すがすがしい よきお話です。

久しぶりに 楠公さんに御参りしようと思いました。

桜井
小学校の長距離遠足は桜井でした。楠正成は少年のヒーローだったのですが戦後は語られる事は有りません。
有難うございました。久しぶりに血湧き肉踊る「楠正成物語」最後の場面も目に見えるようです。

かぐやひめ

湊まつり
楠正成は幕末明治に見なおされ、維新の守護神のように崇敬されたと承知しています。
正成父子をまつる湊川神社は明治の創建だそうです。だから、古色もないし、柱もコンクリートです。

1970年まで「神戸の”港まつり”」は、湊川神社の祭神を中心にしたまつりでした。1970年以後、主祭神なしの市民の祭になりました。
そして一気に魅力を失いました。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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