実在した快傑ハリマオー



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ハリマオ
怪傑ハリマオ


ウルトラマンや仮面ライダーが流行るよりずっと以前、少年達の心を奪っていたヒーローが、「黄金バット」と「快傑ハリマオ」でした。
「黄金バット」空想上の人物ですが、「ハリマオ」は実在の人物です。
本名を谷豊(たにゆたか)といいます。

谷豊は、妹をChineseに惨殺され、復讐のために三百人ほどの地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人やChineseを襲い、奪った金品は私有せず庶民に与えた人物です。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、三十歳でお亡くなりになっています。

谷豊
谷豊


谷豊は、明治四十四(1911)年、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれています。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
ここは美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる地です。

けれど「教育は日本で受けさせたい」という親の意向で、豊は、大正五(1916)年、五歳のとき、ひとり日本に帰国します。
そして祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。

小学校を卒業した豊は、大正十三(1924)年、再びマレーシアへ戻り、マレーの友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごします。
天性の運動神経と、気の強さで、彼は喧嘩がものすごく強かったそうです。
加えて喧嘩っ早い。
豊のまわりには、いつも人が集まっていたそうです。
そして十九歳でマレー人のワンシティさんと結婚。イスラム教に改宗します。

昭和六(1931)年、二十歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国します。
ところが身長が足らず「丙種合格」となりました。
要するに不合格だったのです。
このことは、かなりショックだったようです。
やむなく豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになり、その後、福岡市内の鉄工所に就職します。

この頃、豊は、美野島や柳町の飲み屋によく出かけています。
そこでもよく喧嘩をしています。
小柄で細い豊は、相手に舐められるのだけれど、サッと懐に飛び込んで、相手の腹や顎を強打します。
たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。
そして給料をもらうと友人たちと博多に飲みに出かけていました。
博多には気になる女性もいたそうです。
さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。

ちょうど、その頃のことです。
マレーシアでは、在マレーのChineseたちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
Chineseの気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
彼らは要するに中華思想が根っこにあるわけで、それは、東亜は、すべてChinaが世界の中心の国であり、周辺国である日本やウイグル、チベットなどは属国である、という思いこみです。
ですから欧米はハナから敵対国だからChinaを侵略してくるのは、ある意味仕方ないことだけれど、自分たちより格下の日本がChinaより強かったり経済力があったりするのはケシカランと考える。
どうみても非常に次元の低い観念だけど、人間というのは、とかく次元の低い感情ほどムキになるし熱くなるものです。

Chineseたちは、マレー国内で暴徒の集団を作り、日本人を襲いました。各所で、日本人の営む商店や家屋を襲い、金品を奪い、男を殺し、女を強姦し、残酷な方法で殺害したのです。

昭和七(1932)年十一月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、Chineseの暴徒たちによる襲撃にあいます。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。

この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
弟は英語学校に行っています。
家には、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりだったのです。

Chineseたちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
そしてChineseの暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。
そして暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たものは、荒らされ、血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体だったのです。

Chineseのこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。
このときも、Chineseの暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
記録にはないけれど、もしかすると幼い妹は暴行もされていたのかもしれない。

夜になって、繁樹と隣家の歯科医は、妹の生首を奪還してきてくれました。
そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれたそうです。

あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きます。
そのときの豊の気持ちは、察して余りあります。
大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。
豊は、復讐のために冷たく血を冷やします。
そして昭和九(1934)年七月、単身マレーシアへ向かいました。

マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みます。
店は結構、繁盛しました。
豊は、床屋を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めます。
妹を殺したChineseは、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、消息不明になっていたです。

なぜ?と思うかもしれません。
この時期、マレー国内の経済は・・・それは今もだけれども・・・Chineseの華僑が牛耳っていたのです。
そしてマレーという国の形がどうあれ、ChineseたちはChineseの理屈で動きます。簡単にいえば、カネで買収して裁判の判決を無罪にしてしまっていたのです。

欧米は、いわゆる「契約社会」です。結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づきます。
民間どおしの関係も同じです。すべては契約に基づきます。
けれどChineseは異なります。
彼らは「人治社会」です。人が判断するものだから、人次第で判決も、どうにでもなる。
ついでにいえば、日本は「相互信頼社会」です。
嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされます。
悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、従容として裁決に従います。それが日本人です。
けれどChineseは、嘘を言おうが捕まろうが、上に立つ者が、していないと認めれば、それはなかったことになる。それがChinese社会です。

マレーで床屋を営んだ豊は、この時二十一歳でした。
豊は、統治者である英国官憲に強く抗議しました。
無罪とは何事か。事実関係はちゃんと調べたのか。犯人の居場所を教えろ等々。

しかし、しつこく食い下がる豊は、逆に不審者とみなされ、英国官憲に投獄されてしまいます。
出所後、ツテを辿って日本の政府関係者にも陳情するけれど、誰も取り合ってくれません。
まるで拉致被害者に対するこれまでの日本政府と同じです。
味方が居ないことを知った谷豊はひとり復讐を決意しました。
そうしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて、姿を消してしまいます。

それからしばらくして、英国人とChineseの事務所だけを襲う盗賊が出没しました。
最初の事件は、昭和十二(1937)年トレンガヌ州政府土地局が襲われた事件でした。
ここでは土地証文や債券、手形など時価三万ドルが盗まれました。
ただし人的被害者はいません。

次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
白人の経営する金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれました。
手口は同じです。ここでもやはり、人の殺傷は一切ありません。

同様の犯行は、次々と続きました。
裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
そしてその金品が、付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。

マレー人たちは大喜びです。
そしてこの盗賊は、いつしかマレー人たちの間で、「ハリマオ」と呼ばれるようになります。
ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。

やがてハリマオを頂点とする盗賊団は、Chinese華僑の豪邸や商店も標的にするようになります。
殺しはしない。
しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行っています。

幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語がとても堪能でした。
そのためハリマオ盗賊団のマレー人の新しい部下などは、ハリマオが日本人であるということさえ、まったく知らなかった者も多かったそうです。

昭和十六(1941)年四月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されました。
神本利男(かもととしお)が現れたのは、ちょうど豊がバタニの刑務所にはいっているときでした。
神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもちます。

この神本利男という人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと似たタイプの男です。

神本利男(かもととしお)
神本利男


色男でもの静かですが、固い信念を持っています。
神本は、もともとは警察官でした。
そして満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得ます。
そして神本は、警察官を退官すると、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で三年間修行を積みます。
そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となりました。
当時、満洲道教会で葛月潭老士といえば、超大物です。
そして葛月潭老師の門下となることができた日本人は、神本と大馬賊として有名な小日向白朗の二人だけです。
神本は、それだけ優秀な人物だったということです。

ところで、大東亜戦争開戦が近づいた頃、バンコクに駐在する特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
当時はChina事変の最中でもあります。
Chinaでは、蒋介石が国民党を率いてChina各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていた、そんな時代でした。

日本軍は、蒋介石を追い込み、China各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡してChinaとビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込んでいます。
Chinaが無政府状態となり、China全土で略奪暴行が日常的に行われていた時代です。

農地は荒らされ、家畜は殺される。
これでは庶民は食えません。
食えなくなった庶民は、日本軍怖しとデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まる。
蒋介石軍の人数が増える。
国民党軍の勢力が盛り返す。

その悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければならなかったのです。
日本が英米豪に宣戦布告すれば、日本は軍をマレーからビルマに北上させ、援蒋ルートを遮断することができる。特務機関の田村大佐は、神本に白羽の矢を立てます。

マレー国内に、日本軍と連携し行動を共にしてくれる仲間を作る。
それには、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよい。

神本は、密命を帯びてマレー半島を南下します。そして道教のネットワークを使い、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止め、タイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼したのです。

このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだといいます。
「違う!、お前は日本人だ」という神本に、豊は複雑な胸中を語ったそうです。
妹の殺害事件で、日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われた。
やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難した。
豊は、日本から見捨てられたと感じていたのです。

神本は静かに説得しました。
「まもなく、この半島は戦場になる。俺は、マレーをマレー人に戻したいと思っているんだ。そのために君の力を貸りたい。マレー半島はこれまで、白人によって四百年間もの間、支配され続けてきている。反政府運動は、バラバラにされ、すべて簡単に鎮圧されてきた。だがな谷君、日本軍に現地人が協力してくれるなら、日本は必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来る。それは必ずできる。」

「豊、小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄じゃないか。」
豊は、神本の人間的な魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたそうです。
さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本は、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせました。

豊は決心しました。
「わかりました。あなたについていきます」

ちなみに、この頃のハリマオ団は、実数は約三百名です。
けれど一般には「配下三千名の大盗賊団」と言われていました。
そう思われるくらい、豊はメンバーを選りすぐりの者で構成していたのです。
配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったのです。
実際、豊の部下達は、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したり、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていました。

さて、神本の説得に応じた豊のもとには、藤原機関から多額の軍資金が出るようになりました。けれど豊は、受け取った軍資金を、まるごと近隣の村人たちのために使っています。
昭和十六(1941)年、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定し、マレー北部のタイ国境から三十キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設します。
英国のシンガポール防衛のための防衛ラインです。ジットラ・ラインといいます。

この陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透します。
一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜きます。
さらにトーチカの場所や地形などを調査し、精密な地図を作って日本軍に送ります。

このジットラ要塞について英国軍は「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」と豪語していたそうです。
しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜き工事で、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
いざ戦端が開かれると、わずか二日でジットラ要塞は堕ちてしまいました。
谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物であったことはいうまでもありません。

また英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦も進めていました。
これは英軍の精鋭部隊が密かに国境を越えて、日本軍がやってくるのを待ち伏せ、一気にせん滅を図るという作戦です。
この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れ、日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。

ちなみに、この作戦にも明らかなように、大東亜戦争は「日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に体制をとって、手ぐすねひいて待ち構えていたのです。

昭和十六年十二月の大東亜戦争開戦からちょうど一ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会います。
藤原は、そのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。

========
「なに。谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」
私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。

私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。

私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」

「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

「有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。(F機関一七六~一七七頁)
========

藤原岩市参謀
藤原岩市参謀


マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊の過去の悲劇を知っています。
どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘ったといいいます。
しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。

初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに「谷豊がマラリアを再発し危篤です」という報せが届きます。
藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時、豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命令します。
藤原は語ります。

「一人として大切でない部下はいない。しかし、わけてハリマオは、同君の数奇な過去の運命と、このたびの悲壮な御奉公とを思うと、何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。けれども病死させたのではあきらめきれない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」(同二四七頁)

シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞います。

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私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
私は、
「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に、
「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
「私が! 谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。(前掲書二六九頁)
========

官吏というのは、今の国家公務員です。盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。
開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

========
お母さん。豊の長い間の不幸をお許し下さい。
豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん。日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。
豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。
生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん。豊が死ぬ前にたった一言、いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん。どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
そしてお母さん。長く長くお達者にお暮らし下さい。
========

谷豊とその家族


昭和十七年三月十七日、快傑ハリマオとして名を馳せた谷豊は永眠します。
享年三十歳でした。
臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布二枚だけだったそうです。
それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されます。

その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
そこで豊の訃報を受け取ります。

「北部マレーの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に還った。彼は私の厳命を遵守した。彼は勿論その部下も、私腹を肥やすことも、一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった。」(前掲書)

近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。

「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。
心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」

写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。

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快傑ハリマオ OP 「アラフラの真珠&南蒙の虎」編


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コメント

遠藤

怪傑ハリま
 子供の頃にテレビのドラマとして放映されており、毎回見ておりました。 主題歌は、東京カルテット版と三橋三智也版の二種類があります。挿入歌として南十字星の歌もありました。
 谷豊や藤原機関(F機関)などについては中学時代に調べたことがあります。
 昭和17年谷豊を主人公にした『マライの虎』という映画が制作され、主題歌が東海林太郎の歌唱でレコード化されています。(戦後のテレビドラマの主題歌とは異なる)

和歌

No title
谷豊さんはアサヒ足袋で働いていらしたんですね。そこは現在のアサヒ・シューズの前身の会社でしょうか?アサヒ・シューズさんは、2004年のスマトラ大震災のときに、北スマトラ州の子供たちに大量の靴を寄付してくださった会社です。アサヒ・シューズさんとマレー系社会(国は違うけどって言っていいと思う)のつながりにびっくりしました。

ちなみに、昨日マレーシア・ケダ州のジットラにいってきたばかりだったので、これを1日早く読んでいればなぁとちょっと後悔しました。

明子

No title
そうでしたか。実在する人物でしたか。
浦辺粂子さんが、お母さん役でしたね。

そうでしたか。

ありがとうございます。

-

bb様 ハリマオーの歌詞に感謝です
ハリマオーの伝記悲しいけれど素晴らしい生涯だったと思います、また日本人として誇りに思っています。

歌詞もいい歌を口ずさむのですが、泣けますね。

うたのすけ

懐かしい・・・
ハリマオ!子供の頃の憧れの人でした。しかし、谷豊という人はじつはこんなに謙虚で素直な人だったと知って、いっそう嬉しく思います。日本の誇りですね。
さあ、われわれも今からでも遅くはない。日本のために戦わねばならないときもありえる。ふだんから、心のみならず体も鍛えておこう。

hisa

先輩!?
福岡市日佐小学校!
私の母校です。

全く知りませんでした。
あのハリマオが先輩だったなんて!

ねずきちさん、有難うございます。偉大な先輩の事をもっと詳しく調べてみようと思います。

ちなみに日佐小学校は「オサショウガッコウ」と読みます。

-

歌を歌いながらハリマオの一生が走馬灯のように
ハリマオは日本の英雄で凄い人物です。 小学校で教えられたらどんなに素晴らしいことか。

きっと子供達は目をキラキラさせて出来る限りの想像を働かせ胸をときめかすのでしょうね。

弱きを助け悪に立ち向かう、自分もいつかハリマオのような勇敢で立派な人間になりたいと。

日本の明るい未来がどれだけ約束されるか、なのに誠に残念至極。

自虐教育に自虐思想を植えつけ、精神的かたわの人間を増産させているのが今の日本です。

60年以上も、国を守るために戦争でなくなった先人や、英霊に感謝の念も、想いも馳せず生きてきた。

その放漫さが悪魔の繁殖を許してしまったようです。
今日の日本は招くべきして招いたといえます。

時間は限られてますが、日本人ならば心を入れ替え国を守るために、戦う決心をしなければなりません。

 「盗られてたまるか」 です。

まつ星

bbさんありがとうございます
なぜか歌だけ記憶にあります。
三橋美智也さんの歌だったのですか。あやふやだったところも、メモしてしっかり覚えたいと思います。なんか元気がでますもん。
ついでといっては何ですが、「ともしび」が気になっています。私の記憶では
「夜霧の彼方へ別れを告げ  
雄々しきますらお 出でてゆく
窓に今高く ともすあかり
照らせそのゆくて 赤く燃えて」
なのですが、調べると後半が
「窓辺にまたたく ともしびに
つきせぬ乙女の愛のかげ」
となってまして、違うのです。私は自分の記憶のが断然いいと思うのですが、何かご存じありませんか。

後になってしまいましたが、トラのお好きなねずきちさんが
いつか必ずハリマオを語ると思ってました。        待ってました!!

tamago

No title
今回も素晴らしい話をありがとうございます
先人を誇りに思います

bb

見つけてまいりました。「快傑ハリマオ」の歌
快傑ハリマオの歌
「快傑ハリマオ」
昭和35年1月12日


加藤省吾 作詞
小川寛興 作曲
三橋美智也、
東京メール・クァルテット 唄


真紅な太陽 燃えている
果てない南の大空に
とどろきわたる おたけびは
正しい者に味方する
ハリマオ ハリマオ 僕らのハリマオ


天地鳴らし 吹きまくる
嵐の中も まっしぐら
怒濤も岩もうち砕き
勝ちどきあげておしすすむ
ハリマオ ハリマオ 僕らのハリマオ


空の果てに 十字星
きらめく星の そのように
七つの海をかけめぐり
正義にむすぶこの勝利
ハリマオ ハリマオ 僕らのハリマオ



私は全部歌えます。三橋美智也の高音とともに、懐かしい!!

(注)2番の「天地」は「あまつち」と読んでください。

赤子

No title
怪傑ハリマオ、懐かしいですね。
「まーっかなーたいよーもーえていーるー」の出だしだけ覚えています。
日本人がモデルだとは知っていましたが、谷豊さんだとは知りませんでした。
当時のシナ人暴徒による日本人排撃も惨殺事件も知りませんでした。
ハリマオ誕生には、このような痛ましい背景があったことも。
シナ人暴徒に復讐する為、ハリマオになった気持ちは良く分ります。

GASGAS

懐かしい
ねずきち様
いつもいつも、有難う御座います。
ハリマオのお話とても懐かしく読ませて頂きました、
そして実在していた、しかも日本人、おまけに九州の人、と言う事はとても驚きでした。
子供の頃頭に風呂敷巻いて、五円か十円で買ったプラスチックのグラサン掛けて、「まーかなーたーいよー」
って歌っていました。
歌詞にもあります「正しい者に見方する」
私たち世代の正義観はあの頃培われたのかも知れません。
それにしてもシナ人の残虐性、無抵抗な者しか相手しない卑怯な人間性は昔も今も同じですね。

佐々

12月23日愛知県三河近辺にお住まいの方はぜひ参加してください
平成二十一年度
天皇陛下御即位二十年
奉祝餅つき大会、

時・十二月二十三日
   天皇陛下御誕生日
   午前十時くらいから、

所・三ヶ根山・殉国七士廟近く、ユウトピア三ヶ根広場

会費・大人五百円、子供未定
   
鏡餅等餅を家に持ち帰る方は千円餅代を別途頂きます。


 天皇陛下御在位二十年奉祝
餅つき大会実行委員会
 神谷実行委員長 


ユウトピア三ヶ根
 所・愛知県幡豆郡幡豆町
      東幡豆大境18-80
      ゆうとぴあ三ヶ根 
        伊藤 弘支配人
          0563-62-3228




維新政党・新風本部の
ホームページより転載


M

No title
ポケモンやクレヨン親ちゃん、、、ほのぼのして、奇想天外、こういうアニメもいいですが、、、

立派な日本人のアニメを放送して欲しいですね、、子供だって自分と同じ日本人の大活躍、偉大な功績を残した人の話を見る、聞くのは大好きなんですよ。

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原爆はなぜ落とされたのか


『十二月八日』 高村光太郎

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの歴史あらたまる。
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇(びょう)たる東海の国にして
また神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。
世界の富を壟断(ろうだん)するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国に於いて否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の象牙(ぞうが)を摧(くだ)かんとす。
われらみずから力を養ひてひとたび起(た)つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する
十二月八日を記憶せよ。
- 高村光太郎 -


"歴史は人間である"
はじめまして。(*'-'*)
参考になれば、幸いです。

『原爆は何故落とされたのか』

「原爆投下が終戦を早めた」という説は、
アメリカが原爆投下を正当化する為に、
今も言い張っているウソ話である。
「日本を降伏させるのに原爆投下は必要なかった」
という事実は、とっくに証明されているのだ。
それこそTBSの特番、
『"ヒロシマ"あの時、原爆投下は止められた』
でもやっていたほどの常識だ。
※(某キャスター氏のコメントは人間理解の浅薄さを証明する情けないものだったが。)
http://matodoga.blog24.fc2.com/blog-entry-195.html

「天皇の地位保全」の条項さえ出せば、
原爆を投下せずとも日本は降伏すると
米国務次官・グルーは何度も主張した。
しかし大統領トルーマンは、
ポツダム宣言の草案から
「天皇の地位保全」を認める条項を
あえて削除した。
トルーマンは原爆を投下するまで
日本を降伏させたくなかったのだ!

○莫大な費用をかけて作った原爆を、
  議会対策の為にも使わなければならなかった。
○ウラン濃縮型と、
  プルトニウム型の2種類の原爆を、
  黄色いサルの住む都市で実験使用して、
  その効果を確かめる必要があった。
○戦後の世界秩序を巡って、
  ソ連のスターリンに
  脅しをかけておく必要があった。

原爆投下は終戦を早める為に
実行されたのではない!
ルーズベルトの急死で、
たまたま大統領になってしまい、
「つぶれた田舎の雑貨屋のおやじ」と言われて
全米国民の溜息を浴びていた
ハリー・トルーマンは、
自分の強さを誇示する為に、
何が何でも虫けら同然の日本人の上に
原爆を落としたかったのだ。
トルーマンは原爆を2個落とし、
目的を達成したら、グルーの案に戻り、
「天皇の地位保全」を日本に伝えた。
結局はトルーマンの計画通りに進んだのだ。
グルーの努力は実を結ばなかった!

『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』
(草思社)の著者、鳥居氏によれば、
ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば
中国が内戦になる可能性が高まると考え、
ドイツを降伏させたあと、
一日も早く日本を降伏させるために、
グルーを起用した。
ルーズベルトは「天皇の地位保全」を主張する
グルーに希望を託したのだ。
ところがルーズベルトの急死、
トルーマンの大統領就任によって、
グルーの対日政策は無視される。
日本を降伏させるわけにはいかなかったからだ!
原爆を落とすために!
 
日本が主体の正しい歴史を知るには
小林よしのり『戦争論』全3巻がおすすめです。


~世界が平和でありますように~



★米中合作★
いわゆる「南京大虐殺」は反日プロパガンダ!

いわゆる「南京大虐殺」は、連合軍、
とりわけ日本に原爆という非人道的な大量殺戮兵器を、
非戦闘員である日本人50万人(広島・長崎)の頭上に投下したアメリカが、
この国際法上まったく違法な非人道的行為を正当化するために、
日本軍に濡れ衣を着せた捏造された 事件である。
アメリカは更に日本国内の66都市に無差別爆撃を行い、
日本人という 民族に対するジェノサイド(民族抹殺)まで意図していた。
その背景にはアングロサク ソンの根強い有色人種への蔑視が存在すると考えられる。


↓現地の米・外交官がいくら中国の現実を説明しても、
 米本国政府の理解は次のように鈍かった。

・蒋介石は中国のジョージ・ワシントンだ!

・毛沢東は中国のリンカーンだ!

・中国とアメリカは"双子の国"だ!

・中国人は理想を具現する闘士だ!

・中国人は名誉西洋人だ!

【なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?】
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0

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ぼくらのハリマオー
ハリマオ- ハリマオー 僕らのハリマオー

此処だけですが歌を覚えています。

まさか日本人だったとは。 感動いたしましたが、いつもながら涙なくして読むことはできません。

ハリマオとは30歳でこの世を去らなければならない、10歳が20年の如くの命で、燃やし尽くしきる運命の下で生まれた選ばれた方だったのです。

小学校で教えて欲しい、でも現状が許さない。 誰か子供達の為に、漫画本を作ってもらえないかしら。 アニメでそして歌も。

マレーシアには大勢の日本人長期滞在者がいるようですが、ハリマオの話を知れば日常生活がもっと有意義になると確信いたします。

日本の危機
ニュースを追うと、小沢の独裁政権の下地ずくりが日々強固に成りつつあるのがわかります。

ひなげし

No title
いつもながら、血湧き肉踊るお話をありがとうございます。
怪傑ハリマオは見たことはなかったですが、聞いたことはありました。
日本人だったことも、活躍したエピソードも初めて知りました。
特に、お母さんへのお手紙の部分は、涙が出てしまいました。
短いですが、熱く劇的な生涯を送られたのだなと思いました。
こういう人たち一人一人の思いで日本は今まで守られてきたのですね。

楽仙堂

チャンネル桜・デモのお知らせ
【 天皇陛下ご会見の政治利用を糾弾する緊急国民集会 】

 日時 : 12月21日(月) 15時00分~16時00分頃 (14時00分開場)

 場所 : 憲政記念館 講堂
      (地下鉄「永田町」駅、「国会議事堂前」駅 徒歩7分)

 提言者:
   平沼赳夫 (衆議院議員)
   安倍晋三 (元内閣総理大臣) ※ 交渉中
   佐々淳行 (初代内閣安全保障室長)
   ほか 各界有識者に交渉中

 主催 : 日本会議

 共催 : 日本会議国会議員懇談会、日本会議地方議員連盟

 お問合せ : 日本会議 (担当:藤井)
          TEL 03-6906-8995  FAX 03-5157-5657

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※ 「緊急国民集会」終了後は、憲政記念館から「永田町」駅方面へお進みいただき、下記ご案内の議員会館前での座り込み(緊急国民行動)に、ぜひ、引き続きご参加くだ
さい!

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【12.21 天皇陛下ご会見の政治利用に抗議する緊急国民行動 】

中国から要求されるままに、天皇陛下と中国国家副主席との「特例会見」を強行し、「1ヶ月ルール」を覆した件についても全く反省の色を見せないばかりか、「天皇の政治
利用」との批判を不正確な憲法解釈と恫喝で押さえ込もうとした幹事長を擁する与党・民主党と鳩山政権に対して、断固として抗議の声を上げるべく、議員会館前での座り
込みを行います!
怒りを同じくする多くの皆様のご参集を お待ちしております!

 日時 : 12月21日(月)  17時00分~18時30分 
 
場所 : 議員会館前 集合 (地下鉄「永田町」駅、「国会議事堂前」駅)

 ※ 雨天決行!
 ※ 終了時間は多少、変更になる可能性があります。
 ※ 旗やプラカード等の持参大歓迎!

 

杜若

No title
ねずきち様の採り上げる記事は、私の知らなかったことが多くて、とても感謝しております。
今の日本人には、想像もつかないことが数多く存在したのだと実感致します。二度と日本人が、犠牲になることがないように我々は、大陸、半島人の本質をよく理解していなければ彼らの動物的な暴力に何時、係わらないとも限りません。
今でも、韓国を旅行して悲惨な目にあう旅行者の話に枚挙のいとまもないことを思うと、彼ら特亜人に流れる血と言うものは変わることがないのだと思わされます。

ひむか

良い話をありがとうございます。
今回のお話も素晴らしいものでした。涙ながらに拝読させていただきました。同じ日本人であることを誇りに思います。

懐かしい
懐かしい名前です。マレーのハリマオ、藤原機関の一部とはしりませんでしたが、少年倶楽部にも掲載されていたと記憶して居ます。当時は忍術モノ、スパイものが少年に好まれました。

かぐやひめ

知らなかった
怪傑ハリマオは、弟が見ていたから、もしかしたら、ねずきちさんたちの世代もテレビにかじりついていらっしゃったかもしれませんね。

あんな「マレー人らしい服装で黒メガネ」今の今まで、日本人だなんて知らなかったです。

なんて日本人て、すごいんだろう!

そりゃあ、白人も中国人も恐れますよね!

それにつけても、あの頃から中国の後ろにアメリカがいたとは、彼ら歴史的に「つるんでいる」

これは、てごわいね。歴史があるから。アメリカ民主党の中国すりよりは、今に始まったことじゃないんですね。

注意深く見守りましょう。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
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