勝利の要諦は至誠と愛情と情熱・・・藤原岩市陸軍中佐

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藤原岩市陸軍中佐
藤原岩市


大東亜戦争の頃、東南アジア地域における「F機関」といえば、ビルマやマレーシア、インド、インドネシアなどの独立運動を支援した、日本の防諜活動機関として有名です。

ところがこのF機関、発足当時が6名で、最大増員時でも、人数はわずか30名ほどしかいませんでした。

F機関のリーダーは、藤原岩市陸軍中佐です。

そして藤原中佐からして、現地の言葉は話せないし、それ以前にはマレーやインドの地を踏んだこともない。
現地関係者とも、事前には何の縁もなかった。

彼の部下たちにしても、それ以前に海外勤務の経験はありません。
この種の防諜活動の実務経験もない若手ばかりです。

後年、藤原中佐は、英国人将校の質問に答えて、次のように語っています。

~~~~~~~~~~~

私は開戦直前に、何の用意もなく、準備もなく、貧弱きわまる陣容でこの困難な任務に当面し、まったく途方に暮れる思いでした。

そして、自分にできることは、敵味方の違いを越えた純粋な人間愛、そして誠意、またその実践しかないと思い立ちました。

英国もオランダも、この植民地の産業の開発や、立派な道路や、病院や学校や住居の整備に、私たちが目を見張るような業績をあげています。

しかしそれらは単に、自分たちのためのものであって、現地の人々の福祉を考えたものではない。

そこには絶対の優越感と驕りがあるだけで、現地の人々に対する人間愛や思いやりがありません。

東亜の人々は、愛情と自由に飢えています。

だから私は、私の部下と共に誓い合ったのです。

敵味方、民族の違いを越えた愛情と誠意を、人々に実践感得させる以外に道はないと。

そして、至誠と愛情と情熱をモットーに実践してきました。

すると人々は、あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、われわれにしがみついてきたのです。

~~~~~~~~~~~

藤原中佐の心は、マレーシアを独立に導き、インドもまた、独立に導きました。

彼の行動は、至誠と愛情と情熱に貫かれていました。
それがインドの民衆の心を揺り動かしたのです。

インドの独立といえば、日本では最大の功績者はガンジーであるといわれています。
たしかにガンジーの非暴力運動も効果をあげたのは事実です。

しかし人間というものは、単に非暴力や不服従といった哲学や道理だけでは、国民的決起行動という命がけの集団的行動に至ることはありません。
そもそも約300年間もの長きにわたり、インドは英国の支配を受けていたのです。

300年の間、インドの人々は英国人の下で去勢された家畜のように生きるしかなかった。

誤解をおそれずにいうなら、去勢された家畜が非暴力を謳ったとしても、施政者にとっては怖くもなんともないし、飼い主に対する強力な抵抗運動を支える力にはなりません。

まして、永い年月にわたる支配=被支配の構図の中には、様々な利権構造もあるし、確立された社会制度もある。
それらを超えて、人々が命がけの独立運動に動いた背景には、ガンジーの哲学と闘争だけでなく、民衆の運動の起爆剤となる事柄が必要だったのではないでしょうか。

そしてインドにおいて、その起爆剤となったもの・・・それは間違いなく藤原中佐が構築した「インド国民軍」であったといわれています。


インド国民軍(Indian National Army、略号:INA)というのは、大東亜戦争の中で、日本の支援の元に構築されたインド解放のための革命軍です。

インド国民軍は、リーダーにチャンドラ・ボーズを仰ぎ、その総兵力は最盛期には、45000人にも達しています。

インド国民軍は、「自由インド」「インド解放」をスローガンにして「自由インド仮政府」を樹立し、昭和18(1943)年10月には、米英に宣戦布告を行っています。

そして日本軍とインド国民軍が呼応して行った作戦が、昭和19(1944)年3月から6月まで行われた「インパール作戦」です。

インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールでの軍事作戦には、92000名の兵力が動員されました。その中には約6000名のインド国民軍が参加しています。

これに対し英国軍は、約15万人の兵力を投下。重火器装備をそろえ、日本軍の進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻し、これをせん滅する作戦を固めます。

すでに大東亜戦争の末期です。
英国軍の豊富な火力に対し、日本軍にはろくな装備がない。
しかも補給路を完全に遮断されたてしまいます。

糧食の補給もなく、銃弾さえも乏しい中で、日本はインド国民軍兵士とともに、三か月もの長きにわたって、死地を戦い続けます。

そして大敗した。

日本軍の犠牲者は、戦死38,000名、戦病40,000以上です。

インド国民軍兵士は、なんとかチンドウィン河まで帰還できた者が2600名。そのうち即時入院を要する傷病者が2000名。その後戦死400名。餓死および戦病死1500名です。


インパール作戦は完全な失敗作戦だったとよく言われます。

インパール作戦といえば、牟田口中将が馬鹿だった、無策だった等々、いろいろな書きものを見ると、ボロクソに書かれています。なかにはインパール作戦は、作戦目的すらなく単に牟田口中将が功をはやっただけ、意味のない作戦だったなどと、しかめつらしく解説しているものもあります。

たしかに多くの日本兵と、インド兵が亡くなり、部隊も潰走しました。
敗軍となったのです。何を言われても仕方がない。

味方の将兵に、大損害を出しているのですから、その責任は重大です。

しかしこの作戦が、まるで意味のない作戦で、単に牟田口中将の功名心だけの無策な戦いにすぎなかったとするなら、どうして英国軍が15万もの大軍を展開し、重火器を備え付けて徹底した防御線をひいたのかの説明がつきません。

つまり、この作戦は英国側にとって、それだけ脅威のある、必死の防衛をしなければならない「重大な」、「的を得た」作戦だったのです。


インパール作戦の作戦目的は、第一に英軍反攻の集結地を潰す事にあります。第二がインド革命の支援、第三が援蒋ルートの遮断です。

ちなみにインパール作戦の作戦目的について、あたかも援蒋ルートの遮断だけにあったかのように書いているものも多いですが、これは違います。

当時、仏印・香港・外蒙・ビルマ(ラングーン~昆明)は日本が制圧しており、既存の援蒋ルートはほぼ遮断されています。
この当時に残っていた援蒋ルートは、輸送機のヒマラヤ越えルートだけです。

輸送機のヒマラヤ越えだけが狙いなら、航空機作戦を行えばよく、陸軍の大部隊が進軍する必要はない。
進軍するには、進軍を要するだけの理由が必要です。

そしてその理由の最大のものは、「英軍反攻の集結地を潰す」というものです。

仮にもし、インパール作戦が日本側の勝利に終わっていたらどうなったかというと、英軍は反攻の拠点を失い、さらにインド国民軍本体約4万名のインド侵攻を招き、これにインド国内の革命分子が呼応する。
そうなったときには、英国領インドの国内に、どれだけの兵力が誕生するか想像もつかない事態を招き、英国のインド支配は、根底からこれを揺さぶられることになります。

それがわかるからこそ、英国も必死の防衛をしたのであり、だからこそ日本軍に倍する15万もの大軍を、英国本土からはるばる派遣したのであり、ヨーロッパ戦線でたいへんな時期にありながらも、インパールに重火器を取りそろえて、この戦いでの完全勝利を期したのです。

もし日本軍の進軍が意味のないものなら、余計な兵力を割く必要もないのだし、それでもあえて気になるというなら、空爆でもして損害を与えておけばよいのです。

英国が大軍を割いたのには、それなりの理由があったし、日本軍にもれっきとした作戦目的があったのです。

そもそも大本営の南方作戦には、当初からインド攻略は含まれていません。
まして大東亜戦争後期になると、むしろ戦線は縮小したかったというのが実際のところです。

しかし日本は、チャンドラ・ボーズの必死の意見を入れ、インパール作戦を敢行しました。
そしてその際、4万5千人のインド国民軍のなかの6千人だけを作戦に参加させました。
つまり、3万9千人のインド国民軍の兵力は温存した。
そして、苦戦が予想される作戦行動には、日本の精鋭部隊を送り込んでいます。

東南アジア地区を担当した牟田口中将は、たいへん頭の良い歴戦の勇士です。
おそらく彼の頭の中には、もはやこの時点で、日本の敗戦と、東南アジア地区からの撤退は、すでに読めていたのではないか。

そしてこの時点で、インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレー、シンガポールの独立は確保していた。

あとは、東洋の大国、インドの独立だけです。
彼は、チャンドラ・ボーズの意見を入れ、大本営の反対を押し切り、乾坤一擲、日本軍の東亜最後の戦いを、このインパールに賭けたのではないか。

インパール作戦に勝てば、英国のインド駐屯隊は、その主力が壊滅し、インド国民軍がインド国内になだれ込み、民間の義勇兵を募る。
インドは、いっきに独立へと向かうことができる。

仮に、インパール作戦に負けたとしても、帝国軍人が最後まで必死の戦いをする姿をみせることで、インド国民軍はその姿を学び、インドの独立のため、必死の努力をすることを覚える。

勝った英国は、インド国民軍の大弾圧をするだろうし、そうなればインドの民衆も、もはや黙っていない。いちど点いた炎は、そうやすやすとは消えず、インドは独立を勝ち得ることができる。

ならば自分たちは、誇り高き帝国軍人として、インド独立のための最後の捨て石になろうではないか。

このインパール作戦に従軍したインド人の兵士と、日本人隊長の物語があります。
以前、「勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人」という題で書かせていただいた物語です。
まだお読みでない方は、是非ご一読ください。
彼らがなんのために、なぜ、苦しい戦いを敢えて挑んだかがわかります。


衆寡敵せず。
インパール作戦は、日本軍の潰走に終わりました。

しかし、この作戦がもとになって、インドの独立が起こったという史実を、冷静に評価してみる必要があるのではないかと思うのです。


インパール作戦のあと、英国は、インド国民軍の生き残り将校を、軍事裁判にかけると発表します。
軍事裁判というと聞こえはいいが、要するに、一方的に断罪し、処刑するという意味です。

支配者が、被支配者の抵抗軍を重刑に処すことで、彼らの抵抗力を奪う。これには、先例があります。安政4(1857)年に起こったセポイの乱です。

セポイというのはペルシャ語で兵士を意味します。インドでは英国軍におけるインド人傭兵のことをセポイと呼びました。

この年、英国は新式の銃を導入し、セポイたちに持たせます。
その銃で、セポイたちは、ムガール帝国の再興を期して蜂起したのです。

激しい戦いの末、英国はセポイの反乱を完全に制圧します。
そしてムガール皇帝を廃止して、インドを英国の完全統治下に置きます。

セポイの処刑の様子。
英国兵はインド人を大砲の前にくくりつけ、そのまま発砲することで、セポイの五体をバラバラにして殺害した。
セポイの反乱03


歴史は繰り返す。
英国軍はインドの独立のために蜂起したインド国民軍の兵士を、同じように虐殺すると宣言したわけです。

「これでインド人たちは再びおとなしくなるに違いない」
そう思った英国の思惑は、たちまち外れてしまいます。

発表を聞いたインド人たちが、「インド国民軍こそ愛国者たちだ。彼らを救え!」と、続々と蜂起したのです。
インド全域で、民衆たちは反イギリスをかかげ、独立運動の炎を燃え上がらせます。

民衆は議会を糾弾し、ミニコミ誌の拡散や集会を行い、また全国的規模で、デモ行進を行った。

首都デリーでは、英国の対日戦勝記念行事を、市民がボイコットしてしまいます。

インドの独立を目指して戦ってくれた同胞を殺した英国を、なんで俺たちが祝福しなきゃなんないんだ!?

こうしてインド人たちの独立運動は、もはや誰も止めることのできない勢いとなっていったのです。

つまり、インパール作戦は、インドの民衆の心に火をつけたのです。
インパール作戦での犠牲は、つらい犠牲です。
しかし、その結果、インドの国民は蜂起したのです。

蜂起に際して、ガンジーの非暴力主義は、多くの人たちの支えになります。
ガンジー流の戦いは、女性でも、子供でも、老人でも、武器を持たず、暴力を用いずとも、戦うことができる。
そのことが、国民運動を老若男女の境なく参加させ、インドの独立運動に大拍車をかけます。

ガンジーの非暴力運動があったからインド人の国民蜂起があったのではない。
ガンジーは、間違いなく、蜂起した国民運動に、方向を与えたのです。

インド国民軍の必死の戦いが人々の心に火をともしたのです。
その心の火が、次々に連鎖して、全国民的運動となった。
その運動に「非暴力」という方向を与えたのが、ガンジーであるといわれています。


やがて、英国はインドを手放しました。
第二次世界大戦で英国本土も焼け野原になっていたのです。
それ以上の消耗戦を戦いぬくだけの余力は、さしもの英国にもなかったのです。

このとき、インド国民軍のために弁明をなしたパラバイ・デサイ博士は、次のように述べています。

~~~~~~~~~~~~

インドはほどなく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。
インドの独立は日本のおかげで三〇年早まった。

~~~~~~~~~~~~

古来、日本では「戦いに勝つ」ということにおいて、ただ相手を叩き伏せればよいという考え方を採りません。
「勝利」というのは、相手を叩きのめしたり、殺したりすることをいうのではなく、最終的に目的を達成したかどうかで決まる。

ただ単にケンカに勝つというのは、匹夫の勇であり、ほんとうの勇は、身を捨ててでも大を活かすこと。それが日本の武士道です。

インドは、日本軍とインド国民軍が、命を的にして必死の戦いをしたことがきっかけとなって、約300年間の奴隷状態から解放されました。

約8万名の日本兵とインド国民軍の犠牲者は、決して無駄ではなかった。
彼らのおかげで、インドは独立することができたのです。


そして彼らを動かした力とは、藤原岩市陸軍中佐の、至誠と愛情と情熱が出発点だった。

戦いというものは、汚い手を使ってでも勝てばよいというものでは、絶対に、ない。

多くの人を動かし、大きな事業を成功させるのは、常に、至誠と愛情と情熱であるのだと、ボクは思います。

いま、日本は、この国誕生以来の最大の危機を迎えています。

いまこそ日本は、戦後政治の総決算を行い、新たな百年、千年に向けて、日本国固有の歴史・伝統・文化に基づく道義国家の建設を図らなければならないときに来ていると思います。

そしてその戦いの要諦は、まさに、至誠と愛情と情熱にある、といえるのではないでしょうか。

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コメント

おかざき

歴史は繰り返す
日本はインドへUS-2を提供することになった
4mの波高でも救難でき、わずか11秒で離水できる世界最強の救難飛行艇
日本とインド間の支援、協定、歴史は繰り返す
直近のいいはなしと思いました

-

No title
宮崎 繁三郎 陸軍中将 (日本陸軍屈指の野戦指揮官、名将として名高い)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%B9%81%E4%B8%89%E9%83%8E

陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、同事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。また停戦協定後には、機転を利かせて、駐留していた地域に日付と部隊名を彫った石を埋めさせ、そこは日本軍が占領していた地域であるという揺るぎない証拠を示す事で、国境線画定に大いに役立ったと言われている。これにはソ連側も驚嘆したと言う

1944年のインパール作戦 宮崎は陸軍少将で、第31師団・歩兵団長として参戦した。彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。援軍や補給が絶たれて孤立し、同地撤退を余儀なくされた際には自らしんがり(最後尾)を務め、巧みな戦術により見事な撤退を果たした。この撤退時の行動が、後に彼が単なる名将に止まらず、人格者としてまた理性的軍人として賞賛される要因になった。

彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けたのである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた

インパール作戦後に第54師団長となった宮崎は、1945年4月にイラワジ河下流付近で防衛戦を展開した。しかし突如上級部隊であるビルマ方面軍の司令官木村兵太郎大将が司令部を放棄し逃亡したため、指揮系統を失った宮崎師団は敵中に完全に孤立する事態になった。殲滅される寸前で重装備を放棄してペグー山系の竹林に逃げ込んだものの、第54師団は補給や連絡が途絶えて今度は全軍餓死の危機に瀕してしまった。そこで7月下旬やむにやまれず分散して敵中突破を試みたものの将兵の多くが死亡、目的地のシッタン河までたどり着いたのは半数以下であった。宮崎はそこでも粘り強く防衛戦を展開して、ジュウエジンで終戦を迎えた

戦後は小田急線下北沢駅近くの商店街に陶器小売店岐阜屋を開き、その店主として清廉な生涯を終えた。今際の際、病床を訪れたかつての部下に「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度もうわ言を言ったという。宮崎はペグー山系からの敵中脱出時に多くの部下を失ったことを気にかけていたのだった

一知半解

皇国礼賛さんへ
皇国礼賛さん、ここは貴方のブログじゃない。

ねずきちさんのブログです。

「来るな」といえるのは彼だけのはず。
残念ながら、貴方にそういう権限はないということだけは、指摘しておきます。

しかし、人の発言を封じようとしたり、異論を唱える人間をすぐに工作員認定したりする「メンタリティ」は、どうにかならないものでしょうか。

「異論を許さず、相手の言葉を奪う。」

この「メンタリティ」こそ、旧日本軍の悪癖であり、これが無謀な作戦を許した一因であり、その結果、たくさんの英霊を生み出した”元凶”でした。

そうしたことを反省するということが、本当に彼らの尊い犠牲に報いることだと、私は思うのですが。

いくら尊い犠牲に感謝の念をささげようとも、実際の行動がそれでは、犠牲になった彼らも浮かばれますまい。

皇国礼賛

No title
一知半解へ

悪いが、ここはあなたのくるところじゃない。

はっきり言って、邪魔だ。

あんたの慇懃無礼な文章を読んでいるだけで、反吐が出るほど不快になる。

いみじくも椿さんが、「自分の子供を凶悪犯罪者達から必死で守る為、正当防衛でその凶悪犯を殺したとしましょう、 そして後に、あなたの命よりも大切な子供から、『あの時のお父さん、お母さんは、あまりにも冷静さを欠いていたよ、もう少し機転を利かせていたら、傷を負わせるくらいで済んだのに、殺すなんて、人非人だね!!』とか言われたら、嬉しいですかね? 」と書いてくださった。

その通りだとおもう。

あんたは、そこまで書いてもらいながら、それでもなお、そういう論は感情的だといわれる。

私はね、感情的であろうがなかろうが、息子がそんなことを言ったら、黙って殴り倒す。
なぜかといえば、まさにその発言をする者こそ、人非人だからだ。

そしてそこまでして、あかの他人のあんたに、親切に指摘してくれた人にまで、まだあんたは、「いささか感情的になってらっしゃるようにお見受けします」などと、言葉づかいだけは丁寧に発言している。

そのあんたの発言そのものが、ひとでなしの発言です。

あなたのような人間の皮をかぶったケダモノが、日本を戦争に追い込んだんだと、言わせていただく。

悪いが、一知半解! 二度とここへ来るな!!

椿

『誤解』していたようです。

おれんじさんへ、

ある方に教えてもらって、“誤解”をしている事に気付きました。やはりあなたは、私が知っているおれんじさんだと思います。

このコメントの部分は、インドネシア人の発言だと『誤解』していたようです。なぜなら、インドネシアでは、独立記念日には必ず日本の軍歌を歌い、ある町では、日本軍を称える歌を作り、毎年歌ってくれているのに、

その当時のインドネシア人が、こんな“分析的な事”を言うかな?と、あなたを別のおれんじさんと誤解してしまったようです。

>実際にインドネシアにおけるオランダ支配の過酷さを見て、たとえ後付けであっても日本の大儀は間違っていないのではないかと見方を改めたそうです。後に彼は、インドネシアに戻ってきた連合国の支配下にありながらインドネシア側に武器や軍票を渡し、独立運動を助けることになります(この際、英軍を逃げ出してインドネシア側についたインド兵を目撃しています)。


人間じゃない!みたいなことを言って、御免なさいね。m(__)m
 



椿

No title

おれんじさん、あなたのお名前よく見かけますけど、上記のコメントを見る限り、同一人物ではなさそうですね。

>日本陸軍の方も、アジア解放が後付けの大儀であったと当時から理解していたとおっしゃっていました<

どこのどなたでしょう?是非教えて下さい。嘘八百でないならね。それとも、シナ・朝鮮お得意の捏造負け惜しみですか

>インドネシアにおけるオランダ支配の過酷さを見て、たとえ後付けであっても日本の大儀は間違っていないのではないかと見方を改めたそうです<

上記の大東亜共同宣言を読んでも、そのような嘘八百を垂れ流せますね。まさに日本人ではない!

>(恋愛と戦争は何をしても正当化されるという諺があるくらいです<

己の命を救ってくれたご先祖様に対して偉く上から目線な事で、一体何様のつもり?

じゃあ聞くけど、自分の子供を凶悪犯罪者達から必死で守る為、正当防衛でその凶悪犯を殺したとしましょう、

そして後に、あなたの命よりも大切な子供から、『あの時のお父さん、お母さんは、あまりにも冷静さを欠いていたよ、もう少し機転を利かせていたら、傷を負わせるくらいで済んだのに、殺すなんて、人非人だね!!』とか言われたら、嬉しいですかね?

もしあなたが成り済まし日本人でなく、人間の血が通っているなら、そんな“惨い事”、“恩を仇で返すような事”を、恩人に対してよく言えると、自分で自分が恥ずかしくならないわけ


もしあなたが男なら、女の腐った腰ぬけ・屁垂れと言わせて頂きます。ついでに恩を仇で返す「畜生」とも…。


おれんじ

No title
そうそう、

インドネシアに駐留した日本陸軍の方も、アジア解放が後付けの大儀であったと当時から理解していたとおっしゃっていました。

しかし実際にインドネシアにおけるオランダ支配の過酷さを見て、たとえ後付けであっても日本の大儀は間違っていないのではないかと見方を改めたそうです。後に彼は、インドネシアに戻ってきた連合国の支配下にありながらインドネシア側に武器や軍票を渡し、独立運動を助けることになります(この際、英軍を逃げ出してインドネシア側についたインド兵を目撃しています)。

おれんじ

一知半解さま
冷静な指摘は大変重要です。戦争は決してきれいごとではありませんから(恋愛と戦争は何をしても正当化されるという諺があるくらいですから)、事実はどうだったかを当時の記録や証言から把握していくことは今後の教訓ともなるでしょう。

ただ、山本七平さんが現役でいらっしゃった頃は戦中派の方々がまだまだお元気で、戦争についても様々な方向から分析がなされていたと思います。過去を過剰に美化することへの懸念がおありとのことですが、私には戦争体験者亡き後、益々世の中が自虐史観真っ盛りになってきているように思えるのです。

山本氏の指摘は非常に重要ではありますが、戦争を彼の視点のみに依存することもまた非常に危険であると思います。

私には一知半解さんの態度が「南京大虐殺はあった、日本人は無駄死だった」と強硬に主張するApemanさんとかぶるんです。お気を悪くされたらすみません!でも本当に似てるなあ~と思ったので。

椿

シナ・朝鮮・欧米に、どんな大義があったのでしょうか?


>何事にもコインの両面があるように、日本軍についても、素晴らしい面だけではありません。<

あなたにお勧めします。まず、シナ・朝鮮の素晴らしくない面もよーく調べ上げてみて下さい。それから欧米も…。

きっと、日本なんかとは比べ物にならないくらい、“悪逆非道な歴史”が、山とある事を“発見”される事でしょう


杜若

No title
一知半解様

>今は逆に誇大評価史観へと大きく針が振れているのが現状ではないでしょうか。

と、ありますが、私はそうは思いません。
今のネットでの保守ブログにコメントされるような方々は日本人の比率にすればまだ少ないと思います。
調査したわけでもなく、こういうことは軽々とはいえないことは承知しておりますが、私の感じる印象です。

ROM専の方もおられるでしょう。しかしそれでも、多くの日本人は誇大史観には程遠いところにいると思います。

私が、この国がどこかいびつに感じると申したのは、日本人が本当の意味で、戦後を迎えていないのでは、という危惧があることなんです(戦後というよりも敗戦のトラウマと言うべきかもしれません)。
多くの、日本人が、本当の私たちの姿を捉えているのかが、疑問なのです。偽りの鏡に写し出された姿しか知らないのではという危惧なのです。

多くの日本人はこの近代の歴史の真実や、本当の意味を知らないのではありませんか?

私も、このブログや他のブログを駆け回りながら学んでいる最中です。
確かに、ねずきち様のブログには、日本人を美化しすぎるきらいが無いとは言えません。しかし、行き過ぎてるとも思いません。

今の日本人は、私をも含めて真実の歴史に疎すぎるのです。

以前、貴方のブログに書き込んだように、すべては相対的です。善の基準も、悪の基準も相対的に変化していき、常に定まった位置にあるわけではありません。

今日の善よりも、明日の善がより高くなるような国家を目指すべきだし、民族にならなければなりません。

貴方は、いやいやこの国のために戦った方たちに変な重荷を背負わせないでくれと言う。
確かに、そういった方たちもおられたでしょう。しかし、大多数の赤紙をもらった方たちは仕方ないと一時的に思ったにせよ行くからには、祖国のためと気持ちを切り替えて、その命をささげられた方が大半だと、私は思います。

ですから、「無駄死に」(だいぶん前の文章のことなんですが、奥歯に物がはさまったように違和感があったもので、、)の表現だけはやめていただきたいと思います。それは余りにも冷たい言葉に思えます。
そういうつもりで用いたのではないとは思いますが。

なんとなく、前の私のコメントであなたに迷惑をかけたのではと、申し訳なく思います。

一知半解

私のような不純な人間はここでは嫌われるかも知れないが…
杜若さん、コメントありがとうございます。

何も私は日本人を貶めているわけではありません。美点も認めると共に、欠点も素直に認めるべきだと主張しているだけなのです。

何事にもコインの両面があるように、日本軍についても、素晴らしい面だけではありません。

あるがままの当時の日本人の思考・行動様式を分析し、なぜに戦前のような大失敗を犯したのか、そ
の原因を探ることが必要だと思っているのです。

山本七平や岸田秀は、その理由を突き止めるのに良い手掛かりになります。
そのことは、決して今の日本において、有効であっても、逆効果になることは無いと考えます。

ねずきちさんが書かれているように、日本軍の全てが「恩威並びある皇軍」だったのではありません。
こんなことを言えばこちらの皆さんから総反発を食らうでしょうが、残虐行為も確かに存在したのです。

(だからといって、左翼どものように糾弾しろと主張しているわけではないですから誤解なきよう。なぜ、そうした残虐行為が発生したか?その原因を突き止めることこそ、再び同じ轍を踏まないために必要だと思っているだけなのです。)

私が指摘したいのは、物事を片面ばかり見ることの危険性であって、これは自虐史観の左翼にも当然当てはまります。

ねずきちさんの記事は、そうした自虐史観から解放するのに非常に有効だと思ってますし、それについては素直に感謝したい気持ちです。
(しかしながら、ねずきちさんの記事は薬が効きすぎる気がどうしてもしますね。ねずきちさんの記事は、日本人の純粋信仰に訴えかけるモノが強いからではないでしょうか。)

近年、戦後長い間続いてきた自虐史観への反発が広がってきました。
そして、今は逆に誇大評価史観へと大きく針が振れているのが現状ではないでしょうか。

今こそ、ブレーキ役として山本七平の主張を鑑みる時ではないかと考えている次第です。

杜若

No title
一知半解様

今の日本は、大きな戦に敗れた廃墟から、不死鳥のようによみがえりました。
経済的にも、文化的にも、この国はすでにどの国家にも負けない存在感があります。世界に出たことがない私がこんなことをのたまうのもなんですが、これは事実のことでしょう。

しかし、この国はどこかいびつなのです。
誰しもそのことに気がついているけれども、どこが?と聞かれると正確には答えようが無い。

私が思いますに、貴方が主張されるよな内容は、日露戦争直後の時代にこそ為されなければならなかったのではと思えます。
こんなことを貴方に告げることは失礼かも知れませんが、逆のことをなされてはいないのかと思ったりします。

貴方が心酔しておられる、山本七平氏の考えも今の日本には逆効果にしか思えません。何故か日本人のいわば内に向きすぎる悪い面をみているような気がします。

ただ、貴方のような方も必要なことは確かです。
車はアクセルのみでは安定しません。ブレーキと共に働いてこそ、安定した高速走行も可能なのですから。

椿

日本なくして、アジア・アフリカの解放なし!

やっぱりね。(笑)。結局のところ、「日本軍はアジア解放を意図して戦ったのではないのですから、事実を歪めるのはよくないと思います 」という岸田秀の方が、“事実を歪めている”のであり、

真実は、『日本なかりせば、アジア・アフリカの解放なし!』ということのようですね。

この岸田秀という、成り済まし日本人も、きっとあの世で『真実』を知らされ、“赤っ恥”書いてる事と思います。(笑)。



おれんじ

No title
到着後の二日目、私達日本側証人と弁護士団との初顔合わせがあった。その時の深い感銘、感動も私の忘れ難いものである。
 私達は紅顔美青年の英軍大尉誘導の下、銃剣ものものしいグルカ兵に前後から監視されながら、キャンプ外側に設けられた面接所に導かれた。そこには、弁護士団の外、INA参謀長ボンスレー少将、シャヌワーズ、ディロン両大佐、サイガル中佐を初め十数名のINA将士の盟友が、その家族とともに待っていた。盟友達は英軍将校も看視兵も無視して、私の周囲に、「ジャイヒン」「ジャイヒン」(インド万歳)メージャー・フジワラ(私が終戦直前中佐になっていることを知らなかったのであろう。当時メージャーは彼等が私を呼ぶ愛称のようになっていた)と連呼しながら、群がり集まってきた。交々私の手を握り、肩を抱いて再開と遠来を喜んでくれた。家族にも誇らしげに私を引き合わせ紹介してくれた。ビルマ戦線以来、十か月振りの再会である。私は一同の面に、満々たる自信と軒昂たる意気を読み取って、ほっとした。
 私は、思わず、「どうか、裁判は大丈夫か」と、一同に愚問を発した。ディロン大佐は、言下に、胸をたたいて「御心配無用、印度は一年以内に独立を克ち取る。われわれを一人でも処刑したら、在印英人は一人も生きて帰国できないであろう。先日ネール氏が面会に来てくれた。われわれに向かって、諸官は生命と祖国の独立の何れを欲するか、諸官の選ぶ望みを叶えようといった。われわれ一同、異口同音『独立』と言下に答えた」。そして逆に、日本の敗戦を慰め励ましてくれた。
 こんな劇的再会の後、われわれは、幕舎の面接所で待っているデサイ博士を初め、数名の弁護士の前に案内された。・・・・

 そして博士は先ずわれわれの遠来の好意を謝した後、
「日本がこの度の大戦に敗れたことは、真に傷ましい。ニュースの報じるところによると、東条首相や山下将軍を初め多くの指導者や将校がアレストされ、又数多の将軍が相次いで自決されている由、誠に愁傷の極みである。日本は、初めて敗戦の痛苦を嘗めることとなりお気の毒である。しかしどの民族でも、幾度もこの悲運を経験している。一旦の勝敗の如き、必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が極めて近い将来に、必ず、アジアの大国として、再び復興繁栄することを信じて疑わない。
 印度は程なく完うする。その独立の契機を与えたのは日本である。印度の独立は、日本のお陰で三十年早まった。これは印度だけではなく、ビルマ、インドネシア、ヴェトナムを初め、東南亜諸民族共通である。印度四億の国民は、これを深く肝銘している。印度国民は、日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないであろう。他の東南亜諸民族も同様と信ずる。
 と英軍将校の面前で、語られたこの温かく、力強い恩言は、敗戦に打ちひしがれ、祖国の復興は、三十年、五十年否百年の間望み難いとまで失望自失に陥っていた私達日本人にとって、正に活棒を喰った思いであった。

おれんじ

すみません、もう一つご紹介させてください(長文失礼)
同著からのエピソードです

元英印軍出身INA将兵一万九千五百名の処置は、英帝国戦後処理の最も重要かつ難題の一つとなった。戦後の印度統治の成否を左右する大問題であった。1857年サボイ反乱以後の不祥事であった。殊にその処置の当否は、英帝国印度統治の番犬、英印軍内印度人将兵の対英忠誠心に決定的影響を及ぼすことが予想されるだけに、いよいよ重大であった。
 英帝国は、INA反逆将兵を軍事裁判にかけて、厳刑に処することによって、英帝国の権威を誇示し、印度民衆特に、英印軍印度人将兵に対する見せしめにして、印度支配を揺るぎないものにしよう、それができると考えた。
 この決定は、事志と反対の結果を巻き起こすこととなった。・・・

 戦後トインビーやラティモアが指摘した大東亜戦争の史的意義と歴史の必然を予見し得なかったのであろうか。流石の英帝国も、戦勝の驕りと、飼犬と心得た将兵の反逆に対する憤怒のために。
 ガンヂー、ネールを初め、印度国民会議派の領袖は、英帝国の、この誤判を見逃さなかった。現英印軍印度人将兵と血縁、或いは知己の関係にあるINA将兵二万を厳刑に処せんとする軍事裁判こそ、英印軍印度人将兵を会議派側に獲得し、又これを利用して全印度民衆を反英独立運動に動員結集して、独立運動に決定的成功を収める天与の好機と読んだのである。あの抜け目のない英帝国が、正に会議派の思う壺にはまった形となったのである。
 そこで、会議派は逸早く、裁判の公開と会議派の弁護権を要求した。早くも九月十四日、ブーナにおいて、会議派執行委員会を開催、「INA将兵は印度独立のため戦った愛国者であり、即時解放さるべきである」との決議を採択し、これを宣言した。次いで会議派は、その長老の一人で、名弁護士として聞こえたフラバイ・デサイ博士を首席弁護士に挙げ、会議派指導層の中から、錚々たる一流弁護士を選りすぐって、大弁護団を編成した。そして先ず、印度民衆特に英印軍内印度人将兵に対して、会議派挙げての啓蒙宣伝と大衆動員を開始したのである。私達証人は、この弁護団が喚問したものであった。


おれんじ

No title
同ブログにはこちらの著書からかなりの部分が紹介されていますので、ご興味のあるかたは是非。

http://vaccine.sblo.jp/

おれんじ

No title
局長は私の答えに満足せず「そんな説明で満足できるものがあると思うか、それでは貴官はどんな特別のテクニックを用いて、この成功を導いたのか。それを説明されよ」と迫った。私はいよいよ返答に窮して「特別のテクニックなどない。私達は素人だ」というと、局長は不機嫌に「それではいよいよ解らん。貴官も自分の言うことが解るだろう。成功の原因について考えて見てくれ」と追い詰められた。
 私は、この好意の局長に満足を得る回答を与えたい、局長の言うことも道理だと思うけれども、名答が浮かばない。・・・そして、これより外にないと思い到った所信を、誠意をこめて語った。

「それは、民族の相違と敵味方を超えた純粋な人間愛と誠意、その実践躬行ではなかったかと思う。私は開戦直前に、何の用意もなく準備もなく、貧弱極まる陣容で、この困難な任務に当面した時、全く途方に暮れる思いに苦慮した。そしてハタと気付いたことはこれであった。英国も和蘭も、この植民地域の産業の開発や立派な道路や病院や学校や住居の整備に、私達が目を見張るような業績を挙げている。しかしそれは、自分たちのためのもので、現住民の福祉を考えたものではない。自分達が利用しようとするサルタンや極く一部の特権階級を除く現住民に対しては、寧ろ、故意に無知と貧困のまま放置する政策を用い、圧迫と搾取を容易にしている疑いさえある。ましてや民族本然の自由と独立への悲願に対しては、一片の理解もなく、寧ろこれを抑制し、骨抜きにする圧政が採られている。絶対の優越感を驕って現住民に対する人間愛―愛の思いやりがない。現住民や印度人将兵は、人間、民族本能の悲願―愛情に渇し、自由に飢えている。恰も慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように。私は、私の部下とともに、身をもって、この弱点を衝き、敵味方、民族の相違を超えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼等に実践感得させる以外に、途はないと誓いあった。そして、至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを努めたのだ。・・・」と力説した。・・・・

 局長は、私の所説を、顔色も変えず、冷静熱心に聴き取ってくれて、大きくうなづいた後「解った。貴官に敬意を表する。自分は、マレイ、印度等に二十数年勤務してきた。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついにできなかった」としんみり語った。
 私は局長の、この立派な態度と人柄に、頭を下げて感謝した。われわれ日本の将校に、この態度をとれる将校が果してあるだろうかと自省した。・・・・
 局長は俄かに打ち解けて私に「妻子はどうしているか」、「帰国したら、どんな生業につくか」と尋ねてくれた。・・・・
 こんな和やかな問答の後、大佐は、ネビーキャットの煙草二罐を差し出して、私の幸福を祈ると訊問の終わりを告げて立ち上がった。私は局長の高い品性に打たれつつ、刑務所に帰った。

おれんじ

No title
こんばんわ!反日ワクチンさんのブログで藤原中佐のご著書が紹介されていました。もうご存知かもしれませんが、とても感動的でしたので長文ながらご紹介させていただきます。
(以下同ブログより、URLこちらhttp://vaccine.sblo.jp/article/17294471.html


十一月の初め、私は、厳重に手錠と捕縄をかけられた上、一個分隊のグルカ兵に物々しく警備されて、クアラルンプールの刑務所に転送された。施錠の手に、毛布に包んだ身の回りの品を持たされ、駅の待合室の土間に、しゃがませられ、現住民旅客の眼に晒し者にされた時の口惜しさは、得も云われぬものであった。
 この刑務所には、八百名の現地人囚人の中に、七十一名余りの日本軍戦犯容疑者が収容されていた。既に死刑の判決を受けた二名の獄友も含めて。憲兵と刑務所関係の司政官が主であった。チャンギ―と異なって、取り調べが終わり、容疑の晴れた者は、苦役を課せられたが、大部屋に収容せられ、食事の量は豊富であった。刑務所外の苦役(官舎の薪割り、椰子の実のガラ拾い等)は、娑婆に飢えている私達には、却って楽しかった。その上、留守のボーイやコックの同情から、白いパンや煙草にありつけることも、一同の人気を買った。自由を失った者には、こんなささやかな自由でも、その有難さが心に沁みるのである。自由に浸っている者には、自由の有難さ否自由を満喫していることさえも意識出来ないのではあるまいか。・・・・

平穏な日々が続いて、年も改まり、三月を迎えた。帰国の好運を夢見ることが多くなった時、突然訊問の呼び出しがかかった。・・・・
 禿頭大柄の局長は、五十の坂を越していると見えた。意外に柔和な態度と口調で、マレイの探偵局長であることを告げた後、F機関の工作経緯について、三日間にわたって訊ねたいから、素直に答えてくれと前置きした。
 バンコック以来の工作経過、印度工作、サルタン工作、スマトラ工作、マレイ青年連盟工作、ハリマオ工作、華僑工作について克明な訊問が続いた。訊問の内容、態度から、戦犯容疑の追及が目的でないように察せられた。F工作が成功した原因、事由を掘り下げようとするもののようであった。現地人関係者やINA、IIL首脳との接触経緯や彼等の発言内容、彼等に対する私の人物評等を重視した訊問が多かった。マレイ探偵局或いは総督の植民政策の反省と今後の施策参考資料を狙っていると思われた。かく察した私は、和やかに、誠意をもって素直に応答した。
 最後の日、訊問が終わった後、思い入れる口調で「貴官の工作は、真にグローリアス・サクセスであった。敬意を表する。1942年の初めから、英当局は、貴官の工作を重視して、デリーに大規模の対抗機関を特設して、情報収集と対抗施策に活動した。・・・・・
 そしてややきびしい口調で、「貴官の詳細な応答は多とするが、なんとしても納得しかねる疑点がある。・・・・

愛信

『保守の危機』! 外国人参政権や夫婦別姓
『保守の危機』! 外国人参政権や夫婦別姓
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2010021402000075.html

安倍氏らの活動拠点は、自民党や改革クラブ、無所属の
議員七十八人でつくる勉強会「創生日本」。
安倍氏が会長、平沼氏が最高顧問という関係だ。

国政に対する要請書を開設しました
国籍法改悪反対運動に負けず国民の力を集めて
売国法案を断固阻止しましょう。 貴方も売国法案阻止の要請をお願いします。
【国政に対する要請書】コメント一覧はこちらをクリックして下さい。http://www.aixin.jp/ysksh.cgi

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工作員 牟田口中将
>日本の高級軍人でありながら外国スパイだった男:牟田口廉也

最初の活動は「盧溝橋事件」ですね。
中国共産党の劉少奇が付近の大学の共産分子を扇動し、盧溝橋付近を警備し軍事教練中の日本軍に対し夜間に国民党軍との間から双方に向けて発砲し、共産軍にとって都合の悪い国民党軍と日本軍を相争わせようとしたものです。

日本軍は抑制が利いていてむやみに発砲しようとしませんでしたが、牟田口廉也連隊長は「早く撃ち返せ」と命じました。

牟田口が「日本軍の戦犯」として裁かれるために東京裁判で拘留されると、劉少奇は党大会で「あれは自分たちのやったものだ」と暴露し、「盧溝橋事件は日本軍の策略だ」と決めてかかっていた東京裁判の判事たちは大慌ての末に「盧溝橋事件を東京裁判で扱わない」ことを決定し、牟田口はただちに放免されました。


>日本軍壊滅:インパール作戦を実行し6万人からの日本兵を虐殺:日本の帰趨を決めた男情勢を見極めたらいち早く安全地帯へトンズラ

「ジンギスカン作戦」と称したインパール作戦では、日本軍史上最大規模の餓死者を築いて日本軍は敗退しましたが、食料をほとんど持たさず撤退も許さないことで武器を使うこともなく「日本軍瓦解」を決定づけることができました。

また「日本軍の高官が外地で芸者遊び三昧をしていた」と問題になりましたがこれも牟田口のことです。(「軍の規律と士気をくじく」のが目的だと考えられます)

さらにある島の守備隊が「壊滅することが決定的」になるや、わざわざ神社の祭壇を築かせて大声で祝詞(のりと)を読み上げ神に我々を救うよう訴えました。(神道ひいては天皇を責め立てさせるためです)


そしてインパール作戦の後、一線から退いた牟田口の転身先が「陸軍予科士官学校校長」です。

(これは「めぼしい士官候補生に目をつけてスカウトする」とともに、「将来禍根となりそうな有能な士官の芽を潰しておく」ための配置だと考えられます。)

すぐに終戦となりましたが、終戦していなければクーデター軍を組織し、それをソ連・中国共産党軍が支援するつもりだったでしょう。



>戦後は戦犯容疑で逮捕されたがスパイ故に無罪放免

そして放免された牟田口が経営した料理屋の名前が「ジンギスカン」であり、牟田口にとってそれは「忌まわしい過去の汚点」どころか「華々しい成功工作」の名前で、「日本を共産国家にする」ことができてさえいれば「自分は英雄だったはずなのに」と考えていただろうと思います。 <

http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/841.html#id_159a561a

bingo

No title
次回落選させるべき民主党議員です。

天皇陛下を差し出して胡錦涛との
 ツーショット写真を得た議員143人

http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1374858

真正保守

国連は共産主義戦略の最高機関(2‐再)
 アイヌ民族(先住民族)をどう扱うかについて、同報告書には重大な瑕疵がある(らしい)。
 国連は、法的拘束力がないものも含め、女性や子どもへの性的暴力・人身売買問題や、先住民族問題など、いわゆる弱者保護、差別問題の解消に向けた取り組みを各国に要請してきた。これらは、共産主義戦略と悉く一致している。

 以下は、『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎)からの抜粋。

【70年代安保闘争が残した課題】
 70年代安保闘争は、1970年4月28日には全国で12万人のデモンストレーションなどが行われていきます。
 しかし闘争は6月23日の自動延長で終わり、事態は別の局面に入っていきます。
 以降、運動はけっして下火になるわけではありません。党派離れした新しい社会運動が次々と生まれていったのです。
 女性解放運動、部落解放闘争、アイヌ解放闘争、沖縄闘争、障害者解放闘争、反天皇制運動など、イシュー(論点)をめぐる闘いが開花していき、党派の領導する全学連運動などからは、大衆は次第に離れていきました。
(以上)

 左翼はなんでもかんでも「解放」したがるようであるが、同時に恒久的な利権や特権を獲得するのが目的でもある。今回のケースは、アイヌ民族であるということだけで、特権階級相当の地位向上が実現することになりかねない。
 同和利権、在日特権、人権擁護利権、先住民族特権、ジェンダーフリー、フェミニズム、…。
 国連は、もはや共産主義国の工作機関である。国連中心主義の危うさに気づくべきである。

※最後のURLに関する部分をカットしました。

(以上)

真正保守

どうもおかしい
 また投稿が不完全に終わりました。この原稿にも最後にURLがあります。
 尻切れトンボになるときは、必ず「投稿クリック」後に再度「この内容で送信します」という確認画面が出て、4桁の数字の入力を要求されます。このケースで投稿すると必ず尻切れトンボになります。
 通常は最初の「投稿クリック」のみで投稿完了画面が出ます。そして投稿も尻切れトンボにはなりません。

真正保守

国連は共産主義戦略の最高機関(2)
 アイヌ民族(先住民族)をどう扱うかについて、同報告書には重大な瑕疵がある(らしい)。
 国連は、法的拘束力がないものも含め、女性や子どもへの性的暴力・人身売買問題や、先住民族問題など、いわゆる弱者保護、差別問題の解消に向けた取り組みを各国に要請してきた。これらは、共産主義戦略と悉く一致している。

 以下は、『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎)からの抜粋。

【70年代安保闘争が残した課題】
 70年代安保闘争は、1970年4月28日には全国で12万人のデモンストレーションなどが行われていきます。
 しかし闘争は6月23日の自動延長で終わり、事態は別の局面に入っていきます。
 以降、運動はけっして下火になるわけではありません。党派離れした新しい社会運動が次々と生まれていったのです。
 女性解放運動、部落解放闘争、アイヌ解放闘争、沖縄闘争、障害者解放闘争、反天皇制運動など、イシュー(論点)をめぐる闘いが開花していき、党派の領導する全学連運動などからは、大衆は次第に離れていきました。
(以上)

 左翼はなんでもかんでも「解放」したがるようであるが、同時に恒久的な利権や特権を獲得するのが目的でもある。今回のケースは、ア

真正保守

国連は共産主義戦略の最高機関(1)
【アイヌ報告書】
『歴史と文化を踏まえた政策に』
 政府のアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書が、河村官房長官に提出された。
 アイヌ民族の歴史を正面から論じ、国には「アイヌの文化の復興に配慮すべき強い責任がある」と指摘した。国主導による積極的なアイヌ政策の展開を求めた提言と言えよう。
 アイヌの人々は先住民族として北海道を中心に生活し、13~14世紀には独自のアイヌ文化が形成された。15世紀には交易で訪れた当時の日本人の一部が北海道南部に居住するようになり、江戸時代には松前藩が置かれた。
 明治時代には本州などから多くの日本人が移り、伝統的生活を支えていた狩猟や漁労、アイヌ語の使用などが制限されていった。
 戦後になっても、アイヌの人々に対する就職への差別は根強く残ったと指摘されている。
 今回の報告書は、国の近代化政策が「アイヌの文化に深刻な打撃を与えた」と明記した。
 現在、北海道には約2万4000人のアイヌの人々が生活している。生活保護率は5.2%で、全国の2.1%を大幅に上回る。30歳未満の若い世代でも大学進学率は20%で、全国の2分の1だ。
 報告書は、アイヌの人々をめぐる生活環境の改善や差別の解消には、その歴史や文化に対する国民的な理解が不可欠だとし、「アイヌ民族の日」の制定や、学校教科書の記述の充実を提案した。
 北海道以外に居住するアイヌの人々の実態も調査し、全国レベルで支援を強化すべきだとした。
 こうしたアイヌ政策を確実に推進していくため、新法の制定も今後の課題となるだろう。幅広い合意が得られるよう議論を深めていってもらいたい。
 懇談会は昨年、衆参両院で「アイヌ民族を先住民とすることを求める決議」が採択されたことを受けて設置された。
 決議は、2年前に国連総会で採択された「先住民の権利に関する国連宣言」の関連条項を参照しつつ、総合的なアイヌ政策を確立するよう求めていた。
 国会決議を受けて官房長官談話が発表され、アイヌを先住民と認める政府見解も示された。
 国連宣言は法的拘束力がなく、先住民族がかつて所有していた土地や資源についての原状回復や補償の条項も含まれており、現実的とは言い難い。
 報告書は、補償や原状回復は求めず、国民の理解促進やアイヌ文化振興策の拡充に重点を置いた。妥当な結論と言える。

(以上、'09年8月1日付読売新聞社説)

(続く)

椿

自然に、人種差別撤廃なんか出来ませんって!(笑)。

 米英(連合国)の戦争目的を記したのが「大西洋憲章」。

①「領土の拡大を求めず」
②「すべての国民は自らの手で政府の形態を選ぶ権利を有する」
③「主権及び自治を強奪されたものに、再びそれらが回復されることを希望」等と謳われていますが、

現実には・・・、

ソ連は戦争で領土を拡大し、

イギリスは戦後、インドの植民地を継続しようとして、チャンドラ・ボース率いたインド国民軍(INA)の幹部を軍事裁判にかけました

またマレーやシンガポールでも、植民地を維持しようとして戦いました。さらにインドネシアに対しても、オランダを支援して武力行使しています。

フランスはベトナム、ラオス、カンボジアに兵士を派遣し、植民地を維持しようとしました。

こうして見てみるといったい、『大東亜共同宣言』と「大西洋憲章」と、どちらが先進的なものだったのでしょうか?

そして、どんなに“詭弁”を弄しても、日本が明治の開国以来、列強に強く求め拒否され続けてきた、『人種差別の撤廃』、『植民地解放』が、いかに“困難”を極めていたか・・・理解できますよね



真正保守

ミンス政権また「闇法案」提出か

『祝日法改正案 今国会にも提出』
《○○地方のGWあれ!?来週だった》
 観光が集中する5月の大型連休の分散を図ろうと、地域ごとに異なる時期に大型連休を取得する「祝日法改正案」が、今国会にも提出されることになった。憲法記念日など記念日自体は変えないが「○○地方は5月第2週に取得」などと定めて、その地方では最低限、官公庁や公立学校は休みになる仕組み。混雑緩和で観光需要を喚起する狙いがある。政府は「休日革命になる」と意気込み。

 政府の観光立国推進本部(本部長・前原誠司国土交通相)が、「休暇分散化ワーキングチーム(WT)」(座長・辻元清美国土交通副大臣)を設置して検討している。平成23年度の実施を目指している。
 WTは、3月に連休分散化の方策をまとめるが、国内を4~6地域に分割する案が有力だ。対象は5月と10月の大型連休。5月なら、ある地域は5月の第1週、別のブロックは第2週と時期を1週間ずつずらして休日を設定する。
 高速道路、鉄道などの交通機関の混雑を緩和し、旅行費用の引き下げなどで国民の観光需要を喚起することができる。観光地にとっては従来の閑散期にも集客できるため、雇用創出に結びつくとみられ、内需拡大効果がありそうだ。欧州では、フランスやドイツなどですでに同様の「連休分散化策」が導入されている。
 一方で、国民の祝日を月曜日に設定し、土日と合わせて3連休を作る「ハッピーマンデー制度」は廃止する。12年から始まった制度だが、記念日のもともとの意味が分からなくなるなどの問題点も指摘されていた。「成人の日」は1月15日、「海の日」は7月20日、「敬老の日」は9月15日、「体育の日」は10月10日にそれぞれ戻す。
 地域ごとに連休時期が異なると、全国展開の企業や海外取引のある企業に影響が出るため、どのように経済界と連携できるかが新制度の成否を握りそうだ。
 政府は「操業を簡単に休めない製造業の割引が以前と比べれば低くなっていることもあり影響は低く抑えられる。むしろ景気回復への効果が大きい」(国交省幹部)としている。

(以上、'10年2月14日付産経新聞2面記事より転載)

【博士の独り言】
『「GW改正案」と組織選挙』
(2010/02/14 14:07)
http://specialnotes.blog77.fc2.com/?mode=m&no=3182

(マニフェストになし。マスコミ報道皆無)

あきつ

No title
杜若 さま
いえいえ 私もだまされた口です。
戦後教育で 陸軍悪い 海軍よいそんな感じになってますね。

乃木将軍は、後に先帝陛下の学習院長で教育係であったのも攻撃対象とされた原因かもしれませんね。

ノモウハン事件なども 日本軍勝手にはじめコテンパンにやられたと好き勝手教えられたものです・・・
事実は・・・

残念ながら 司馬遼太郎氏の近代史感は傾いていると思います。 近代の検証は逆に難しい面があります。

杜若

No title
あきつ様

多くの知識が若いころに読んだ司馬遼太郎の作品であったことを思うと、無理なしと自戒するところではあります。

ただ、司馬遼太郎作品の多くは(時代劇は別にして)歴史的検証のもとに書かれているとは思うのですが、、。
ただ、正直に申しまして、私の知識の多くがそこからなんですよね。
まあその辺は、私のコメントをもし読まれる方がいらっしゃるなら考慮していただきたいと思います。

ご指摘、感謝申し上げます。

あきつ

No title
杜若 さま
司馬遼太郎史観により 誤った乃木将軍像が蔓延しています。

実際 203高地攻撃は 陸軍はやりたくなかったのです。
離れていて 戦略上意味がなかったためです。
本要塞攻撃が遅れることになって 本決戦に第3軍が遅れることになり 日本が敗れかねないという 危機感がありました。

なお、203高地を落としたときには、もう湾内には動ける艦船はなかったとのことでした。
・・・
これは バルチック艦隊の位置を正確につかみきれない 海軍が世論を煽って 無理やり 乃木第三軍に攻撃やらせて 無駄に兵士を突撃させることになったのです。
また、十分な弾薬もなかったのも事実です。

映画、「日本海大海戦」 だと思いますが・・
28センチ榴弾砲で壊滅させたとありますが・・
実際にはそれでも及ばず・・
本当に攻略できたのは、地下坑道によるものです。

情報収集能力の不足、弾薬の不足は このころからですが、よく戦って勝ったものだと思います。

司馬遼太郎氏は作家であって 歴史家ではないのですが かの方の乃木将軍嫌いは病的ですね。

愛信

小沢幹事長を民意の力で、強制起訴(議員辞職)させる道があります。
小沢幹事長を民意の力で、強制起訴(議員辞職)させる道があります。

http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10457893036.html

2月4日夜のニュース・ゼロ(日テレ)で報道されたことですが、日本国民が
小沢の不起訴に不満な場合、【検察審査会】に対して小沢を起訴する要請
のFAX・ハガキ・電話が大量に届けば、小沢は強制起訴になるそうです。

国政に対する要請書を開設しました
国籍法改悪反対運動に負けず国民の力を集めて
売国法案を断固阻止しましょう。 貴方も売国法案阻止の要請をお願いします。
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椿

大東亜戦争が、アジアを解放してないという“詭弁”!!

 日本の父祖の功績』を醜い僻み根性で認めたくない、成り済まし日本人=反日・朝鮮ボウフラに、『下記の文章をよく読め!』と言わせて頂きます。

戦後、GHQの下で働き労働基本法の策定に携わった、米国の日本専門家ヘレン・ミアーズ女史は、『アメリカの鏡・日本』という著書で、

歴史的に見て、アジアの民衆を「奴隷にしていた」のは、日本ではなく、私達が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国である』と明確に断じています

■また『日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく独立を保障した具体的な行動を進めている』と書かれています。

日本は、1935年にすでに満州での治外法権を放棄していたし
日本は、1940年には中国に正式に約束し
日本は、1943年には、中国政府に租借地を返還している。
④大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地『独立政府』を承認していた

というように、彼女は米国の戦争目的に疑問を呈し、「私達が『解放戦争』と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしい事にアメリカが手を貸した)だったのである。」と述べています。

わたしは、日本人全てが、日本のあの戦いに、(大東亜戦争)に、大いに誇りを持つべきだと思います。

それを侵略戦争だと一方的に決めつけ、盲従的に謝罪する「村山談話」なるものは、“ご先祖様への冒涜”であり、また現代を生きる私達や“子孫への犯罪行為”だと思います。


戦争に突入することになってしまった責任、さらに敗戦の責任はあるけれど、それは米英など連合国と相身互い、日本だけが裁かれる理由はないし、それどころか日本の戦いに、日本国民はもっと誇りを持つべきではないでしょうか?



杜若

No title
あきつ様

203高地の戦いのシーンを映画等でみたのはずいぶんまえのことだし、またそれに関する本を読んだのもそうです。はっきり言って、薄い記憶をさぐりながら書いているようなもので申し訳なく思います。
浅薄な知識から申しますと、軍とは士気の高さが命といってもいいのではないでしょうか。どのような大軍を率いてもその大将に士気を高める能力が無ければ何の意味も存在しません。
その点で、乃木大将は理想的とも言えるでしょう。私でさえ、その下でなら命を捨てても‥‥、と思うほどですから。

ただ、うろ覚えの中で、当時旅順港に停泊するロシア艦船を攻撃する大砲を送られながら、それを活用する機会を誤ったという話が記憶にあったものだし、映画などで強調されるのは、無意味に突撃し、ばたばたと倒れる兵士の姿を描いた203高地が強調されるもので、そういった印象が残るのでしょう。

ですから、本当はどうだったのかは私には分からない部分が多いのです。
当時の兵士になって見なければ分からないことなのでしょう。
ただ言える事は、いつの時代のどのような兵士にも、愛するものが故郷にいて、命を預けあった戦友がおり、また恐怖心も併せ持った、一個性を持った人なんだということです。人形などではないことなんです(多くの203高地に見る映画のシーンにあるのはその人形のような兵士に見えて違和感を感じてしまいます)。

椿

ガンジーの非暴力は、斜陽国イギリスにとって、都合が良かっただけでは?


200年もの長きにわたり、イギリスの徹底支配と奴隷化政策がとられていたインドにとって、「非暴力」以外の方法があったのでしょうか?なかったと思います。

教育も何もかもが、もぎ取られていたインド人が、どうやって、精鋭軍を作れるのですか?“イギリス兵の捨て石”となって働く程度の技術しか教えられていなかったし、人数も限られていたのに…。

その程度の兵力で、どうやって、世界の七つの海を制覇した『大英帝国』を打ち破れるのでしょうか?

常識で考えったって無理です。

インドネシアでもそうです。みな最初は、武器の使い方や軍の指揮の立て方など、全く分からなかった。

そこに日本皇軍がやってきて、白人の搾取に晒されている原住民に、体の鍛え方から、銃器の扱い方、軍備の立て方等などを教えた。それはそれは厳しい教えであったと、現地の方が言っていましたが、

その皇軍の厳しい訓練の教えなくして、一体、インドもインドネシアもどうやって、あの“狡猾な人種差別主義者の欧米”と戦えたのか?

日本皇軍に、戦い方の全てを伝授され、“国を愛する心”に目覚めさせられた、インド国民軍精鋭部隊の強さに、イギリスも歯が立たなくなったからこそ、渋々、インドの独立を認めたのが、事の真相だと私は思いますね。

イギリス側は武力で負けたとは思いたくない。そりゃーそうでしょう。昔はインドのマスター(主人)だったわけだから、それよりも、「強いイギリス人は、心根もやさしいので、“ガンジーの愛の非暴力”に心打たれ、理解したから、インドの独立を承認したのです」と、“負け惜しみの言い訳”をしているだけだと私は思っています

有色人種に負けるなど、本当に腸が煮え繰り返るくらい、ムカついていたに違いないけど、徹底的に武力行使しても、日本皇軍に鍛え上げられた、インド国民軍の強さに、大きな大打撃を受けてしまう。

そうなっては、それこそ、大英帝国の栄誉や名誉は、地に失墜してしまう、それよりも、強いイギリスを保っている間に、嘘でも温和で寛大な態度で、インドを独立させた方が“得策”だと考えたと思います

どうせ負けるのならば、コテンパンに負けるのではなく、『勝ち分』がとれるようにとの“打算”が、大いに働いたのでしょう。

インドを引きあげる時にも、今までの恨みによって、虐殺されないように、ガンジーの愛の精神・非暴力を物凄く持ち上げて、イギリス側の過去の虐殺・虐待・搾取・強姦・暴行・強奪・餓死などを、うまく誤魔化し、

のちのち、両国に禍根が残らないように…との、“白人独特の狡賢い知恵”を使ったのだと思います。

もし、日本皇軍の厳しい訓練に耐えた、インド国民軍の精鋭部隊が無ければ、銃器の使い方も軍の秩序も分からない、力無き烏合の衆団=ガンジー集団であれば、イギリスは決して、植民地をあきらめたりはしなかった!!』と、私は強く思います。

なぜなら、日本が武装解除し、手強い日本皇軍が植民地から、いなくなったと分かった瞬間、オランダもイギリスもフランスも、「植民地奪取」とばかりに、急いで“再侵略”に行きましたよね?(笑)。

これ一つとっても、愛の非暴力に感激して、植民地を解放するほど、おセンチな民族とは、とても思えません!

もし100歩譲ってそうだったとしたら、そんな何百年もの長きにわたって、同じ人間である原住民を、奴隷にして、搾取出来ますかね?

あの時、日本皇軍がいなければ、マレーシアのマハティール曰く、『アジアの植民地解放は、100ー200年はゆうに遅れていた』と、私も思います


愛の非暴力で、お涙ちょうだいされるほど、世の中そんなに甘くはないでしょう。

あの鳩ボケ首相のコメントに、世界中が嘲笑を送っているのが、痛いほど分かります。日本人の私でもそう思いますから…。

国際政治学国際軍事戦略とかいう以前に、[色:FF0000]国際感覚
があまりにも欠落し過ぎているのが、今の日本人ではないでしょうか?




杜若

No title
一知半解様

もっとも強い軍隊とは、アメリカ人の指揮官にドイツ人の参謀、そして日本人の兵とは言われます(もっとも弱いのは??人の指揮官に、日本人の参謀、そして中国兵、でしたっけ?)。

確かにそうなんでしょう。けれどもそれを民族性に適用するのはちょと無理があるように思います。大東亜戦争時がたまたまそうであったとしか思えません。

確かに乃木大将は無能のそしりを受けても仕方が無いかも知れません。しかしそれは多くが参謀の無能に起因していたと思います。乃木大将ご自身も二人の息子を前線で失った。単なる蒙昧な指揮官ではなかったはずです。そこには精神的な清冽さというものがあります。
また、日清、日露戦争時の日本の将兵は概して優秀と呼んでいいのではありませんか?
そうでなくば勝利などあり得ないのですから。

それに江戸時代のように身分が固定されていた時はともかく(しかし馬鹿殿はさすがに排除されたようですよ)、戦国時代の日本人はほんとんど能力主義だったと思います。
世界的に見ても優秀な部類にいる指揮官がそれこそ枡ではかるほど存在したのではありませんか。

ただ、大東亜戦争当時に、日本人には日露戦争で勝利したという驕りが抜けていなかったことは確かだし(国民の多くが多くの僥倖が重なって勝てたことを知らされず、誤った国家観に酔ってしまったこと。これは当時の政府のおおきな過ちです。真実を懇々と国民に伝えるべきでした)、そこに無能な指揮官が生まれる要因が存在したということはあると思います。
これは以前にも、私が貴方に述べたことではあります。

貴方が、おっしゃるようにこれからもそういう事がないとは保障は出来ません。
しかし、今の多くの日本人が当時の世界地図がどのように色分けされていたのか、もう一度振り返り、日本という国家がどんな位置(地政学的にも、白人至上主義に至らんとする〝時の″位置にも、、私が二度とあのようなことは起こらないと述べた理由のひとつがこれです)に居たのかを、見ないでただ、あのときの失敗を数えてはいませんか?

もちろん私も自分の命をささげるなら身を賭しても守りたいとおもえる指揮官のもとで、兵士として(もし私が兵士ならの話ですが)の力量を発揮したい。
もし、死地に赴くならそういった指揮官のもとで赴きたい(その点では私は乃木大将のもとでなら不満はありません)。

もっとも、貴方がおっしゃるような冷静で、客観的な分析力に欠けるのが当時の日本でしょう。それは当時の全般に言えることであって、何も軍隊のみに限ったことではないと思います。
現在、日本がすぐれた工業国家になったのもそういった合理性がアメリカからもたらされたことも大きいと思います。
その点は、確かに当時の日本は遅れた国家だったんでしょう。

ここでもちょっと加えますと、当時の、そして今も?、、アメリカ人の言う人の命の尊さと人権は彼ら自身(白人)にのみに向けられるものでしかないのではということです。
その点は日本人の考え方こそが当時からその人間性という点に於いては彼らを凌駕していたのではないでしょうか。そこは誇りにすべきではなかろうかと思います。

一知半解

杜若さんへ
レスありがとうございます。

確かに杜若さんのおっしゃるように、実際に犠牲となった兵士達がどう考えていたのかはわからないでしょう。

ただ、人間は、自らの行為が無駄であるとわかっていても、そこに何らかの「意義付け」を行なわずには居られません。

自分が無駄死にしたと思いたくないが故に、「アジアの解放を信じて戦うのだ、日本に居る家族を守るのに戦うのだ」と思うのは自然だと思います。

そうした彼らの思いは十分尊重すべきですし、それがあったからこそ現在の我々があることは肝に命ずべきです。

しかしながら、彼らの気持ちは尊重しつつも、後世の我々はそれに酔うだけではいけないと思います。

彼らの思いは、「後付け」だったのです。
彼らは間違いなく「無駄死に」だったのです。

それを許してしまった日本人の思考様式・行動様式について考えてみることこそ、彼らに報いる道だと思うのですが。

また、もう大東亜戦争のような事態は起こらないという杜若さんのご意見ですが、残念ながら私はそう思いません。

戦前戦後通じて日本人の思考様式・行動様式の根本は何ら変わっていません。
戦前とは状況が変わった為に、その欠点が表面化しないだけであって、状況が変わればその欠点がまた現れてくるでしょう。

なぜ日本軍に、無能な司令や参謀が続出したのか??

このことについては、日本の組織と欧米の組織の違いを説明しながら、その理由を明らかにしている岸田秀の記述があります。

ちょっと長くなりますが、参考までに岸田秀と山本七平の対談書「日本人と『日本病』について」から引用紹介しておきます。

(引用開始/~前略)

戦争と違って、会社だと、そんなに死ぬわけじゃない。

共同体は同じメンバーで続いていきます。
太平洋戦争中の作戦のまずさ、失敗と、戦後の経済成長の成功とは、同じ条件がからんでいると思います。

近頃、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本などが出て、日本式経営というものが外国でも評価されはじめていますが、これは、戦争という場面ではうまくいかなかった日本式やり方が、戦後の平和時代にはうまくいったということですよ。

太英帝国は完全に没落したし、戦後のイギリス経済は、落ち目になる一方です。
アメリカだって、いろいろな部門で日本に押されて、日米経済摩擦ということが起こってきているわけです。

欧米式のやり方がうまくゆくのは、大英帝国の繁栄なんか見てもわかるように、つねに拡張し、他国を侵略し、どんどん植民地をつくっていくということが自由にやれたという条件のもとにおいてですね。

アメリカなんかでも、フロンティアがあって、西へ西へとどこまでも進んでいける、アメリカ大陸の西海岸に達したら、さらに、ハワイヘ、フィリピンヘ、中国へ、日本へと進んでいけるという条件のもとではじめて、アメリカ式のやり方がうまくいくわけです。

労働者だって、使い古したら、どんどん首を切って新しいのと入れ替えることができたわけです。

戦争とか侵略とかの場合は、向こうのやり方は実に合理的なんです。

ところが、現在では、戦争をするわけにはいかない、植民地を獲得することはできない。
つまり、人びととの和というものを重んじて、平和的にやっていかなきゃいけないというように世界は変ってきた。

そういう条件のもとでは、日本的なやり方、日本的経営方式というものが非常に有利に働くんじゃないかと思います。

日本的やり方というのは、鎖国して、一定の限られた資源と土地しかなくて、おたがいになるべく喧嘩せず、みんながなるべく傷つかないようにやっていかねばならないという条件には合っているんですね。

現代の世界は、まさか地球の外のどこかに植民地をつくって、資源や労働者をもってくるということはできないから、一定の資源と土地しかない地球の上で、諸国が戦争せずにうまくやっていかなければならないわけで、そこに日本的やり方がうまくいく条件があるんじゃないでしょうか。

本質的に平和な時代に向いている日本的やり方でもって、戦争をやったために、いろいろその弱点が露呈してきたのが、この前の戦争ですよ。

たとえば、日本軍は兵隊は優秀だったが、司令官や参謀に馬鹿が多かったと言われているでしょ。

無能な上官の愚劣な作戦のために、あたら優秀な兵隊が何万も何十万もムダ死にしたわけです。

こういうことになったのは、もともと戦争に向いていない日本的集団を、近代的軍隊組織の枠に無理やりはめこんだことに一因があると思います。

日本的集団では、リーダーは下の者たちに推されてリーダーになるんで、下の者たちの自発的な支持と協力に支えられています。

だから、一方的に強制的な命令を下したりしない。
みんなの意見をよく聞く。
上下、心を一にしてというのが理想です。

しかし、近代的軍隊ではそうはゆかない。
上官は命令権を持ち、部下は服従しなければならない。

ヨーロッパでは昔から集団というものはそういうものだったから、そのままその組織原理で近代的軍隊をつくることに無理がなかった。

集団においていちばん問題になるのは、無能なリーダーをどのようにして排除するかということです。

日本的集団では、無能なリーダーは下の者たちの人望を失い、その支持と協力が得られなくなって、おのずと排除されるという形をとる。
ヨーロッパ的集団では、業績の評価に基づいて排除される

日本には業績の評価に基づいて無能な者を排除するという伝統がもともとない

無能だということで首になった大学教授は一人もいないし、日清日露以来、太平洋戦争に至るまで、日本軍の将軍で作戦指導のまずさをはっきりと糾弾され、何らかの不名誉な処遇をされた者は一人もいない。

乃木将軍なんか、あちらだったら、軍法会議ものです。
それが日本では神社に祀られる。

伝統というものは、たやすく変えられるものではありませんから、これはある意味では仕方がなかったかもしれません。

しかし、軍隊では部下が上官を忌避することはできませんから、ここに悲劇が起こったのです。

つまり、日本軍では、部下が上官の命令に服従するというヨーロッパ的組織原理を取り入れて、無能なリーダーを排除する日本的方法を塞ぎながら、業績の評価によって無能なリーダーを排除するヨーロッパ的方法は取り入れられなかったわけです。

日本軍においては、だから、無能な司令官や参謀が続出したのは必然的だったわけです。

インパール作戦の牟田口中将なんかは、どなり散らすしか能がなく、無能で卑劣な将軍の最たる者でしたが、ああいう男が排除されず、ビルマ第十五軍の司令官として強大な権力を持ち、八万の日本軍兵士をムダ死にさせる結果になったところに、日本軍の構造的欠陥がはっきりと現われています。

日本的集団は軍隊向きじゃないんです。

もし牟田口が店員を五、六人使っている個人商店の跡取り息子で、親父が死んで牟田口商店を継いだとすれば、店員たちに馬鹿にされ、嫌われ、逃げ出されて、店はつぶれたでしょう。
あるいは、彼に妹がいたなら、その妹が有能な店員と結婚して、牟田口商店をやってゆくということになったでしょう。

商売の世界なら当然脱落する彼のような男を排除するシステムが日本軍にはなかったということです。

(~後略/引用終了)

あ太郎

兵站軽視
「軍隊は胃袋と共に行進する」

ナポレオンは兵站の重要性を喝破しました。 戦をするのであれば、「勝ちにいく」のが普通であろうかと思います。

兵站を軽視した第15軍は、戦う前から既に敗れていたのです。 たとえ高貴な理想を持っていたとしても、牟田口中将が優秀な指揮官かどうかは、疑わしいですね。

杜若

No title
一知半解様

岸田秀の著書「日本がアメリカを赦す日」に書かれてあることは、すべて仮定の話のような気がします。
実際、日本軍はインドまで行っていないのでしょう?(実際のことを良く知りもせずに述べるのは申し訳ありませんが)

そうであれば、実際のところは分からないということなのでは?
日本は確かに、アジア解放という大義名分を実際に掲げたのかどうかは、私には正確な資料を今持ち合わせませんが、当時の日本兵の多くはその意識が高かったと思っています。

私は、何も当時の日本軍を美化したいとは思いませんが、三宅氏や、私のような軍人でなくても素朴に疑問に思う兵站無視の作戦が(これはインパール作戦だけにはとどまらないと思います)、一人や二人の無能な指揮官によって為せるかということなのです。

そこに、素朴な疑問を持つからこその意見なのです。
もしそんなことも理解していず、兵站の伸びきった戦場に嫌がる兵士を派遣したのであれば、百人が百人とも同じく馬鹿な日本人と呼ぶことになるでしょう。
決して、賢明とはいえない当時の戦場の地図は、アジア解放の意志なしとは私には読み取れません。

しかし、何度も言いますが、貴方の考え方を批判するものではありません。ひとそれぞれ思うところは違うのですから。
真摯な意見はそれとして述べられるべきと思います。

ちょっと付け加えますと、私はもう二度と当時のようなことは起こらないし、また起こりようも無いと思っています。大東亜戦争という、あの時だけのことだったのです。そう思います。

ミヤビ

それぞれの立場で見解はことなりますね。。
ねずきちさんの記事も一知半解さんのコメントも、私たちが真実を考えるためのとっても良い参考になります。
有難うございます。
私が、このようなインドや英国に歴史に対する知識がない時、ロンドンでフラットの家主の方にこう言われてびっくりしました。
「日本はアメリカに二度も原爆落とされたのに、アメリカの強い圧力に従わなければいけない。
かわいそうだね・・・」
ってです。
日本人の私が何も感じてないのに、このインド人は今でも原爆のことをアメリカの大罪として話題にするんだ~~と驚きました。
西洋人と違い、インド人は日本人の価値観と似ているようで安心します。
このおじさんは、とっても強面の方ですが日本人が好きで良くしてくださるので、ありがたいです。
このような友情の歴史は、今でもしっかりと受け継がれていますね。

一知半解

自己正当化は心地よいが、何の役にもたたない。
今回のねずきちさんの記事は、非常に受け入れ易い、ある意味、我々日本人にとって心地よいとさえ言える記事だと思います。

そこで大変申し訳ありませんが、あえて水を差すコメントを入れさせていただきます。

結論から申し上げますが、今回の記事は、愚かな行為を正視せずに、正当化するだけの自己欺瞞的行為に過ぎません。
それどころか、過去の愚かな行為に対して、真摯に反省することの妨げにしかならないように思います。

今回のねずきちさんの主張には、日本人の「純粋信仰」に基づく悪い意味での影響が、色濃く見受けられます。

動機が純粋であったとしても、愚かな行為は免罪してはならないのです。
純粋な動機は、悲惨な結果を正当化しないのです。

たとえ目的が純粋でも、その為に多くの日本人の命が”無駄に”失われたのです。
理想は素晴らしいかもしれませんが、それを押し付けられた現場の兵士にとっては、地獄の苦しみでしかありません。

動機が、純粋であろうとなかろうと、現場の人間にとって、地獄の苦しみであることは何ら変わらないのです。

インパール作戦に従事して亡くなった犠牲者の殆どは、餓死と病死だったそうです。
戦う以前の問題で亡くなっているのです。

それを無駄死にであったと思いたくない気持ち、彼らは勇敢に戦ったはずだと思いたい気持ちは、私にも十分わかります。

しかしながら、そこで自己を欺き、正当化して終わりにしてしまうことこそ、インパール作戦で犠牲になった兵士達の尊い命を、”本当に”無駄にするということではないでしょうか?

彼らの犠牲を無駄にしないためにも、問題にすべきは、「なぜ、現実を無視してまで理想を”強要”しようとしたのか?」という点であるはずです。
つまり、なぜ現実を無視してまで理想を強要するかという日本人の「精神構造」について、我々は見つめ直すことが必要なのではないでしょうか?

その点を追及しない限り、今後も、牟田口中将のような無能なリーダーが活躍し、無益な犠牲を払うことの二の舞を避けることはできないように思います。

最後に参考までに、岸田秀の著書「日本がアメリカを赦す日」から、インパール作戦に触れた部分について、ちょっと長めですが引用紹介したいと思います。

(引用開始/~前略)

大東亜戦争は、確かに、アジア解放のきっかけにはなりましたが、それ以上のことは言えないのではないかと思います。

日本は、宣戦の詔勅にあるように、自衛のために戦ったのであって、アジア解放の正義のために戦ったのではないですが、しかし、正義のために戦争を始める国なんてどこにもないでしょう。

しかし、看板に正義を掲げるのはよくあることで、アメリカも、南北戦争をやったのは奴隷解放のためだと称していますし、ベトナム戦争は自由と民主主義を守るためだったということでしたし、どの国も、立派な戦争目的を掲げたがる傾向がありますから、日本がアジア解放の正義のために戦ったと称しても、とくに取り立てて咎めるほどのことではないかもしれません。

大東亜戦争がアジア解放のために役立ったとしても、日本軍が意図的にそのために何かしたということによるのではないと思います。

白人が長いあいだアジアを植民地化し支配しつづけることができたのは、アジア人が白人には敵わない、反抗しても無駄だという幻想を植えつけられていたからです。

支配=服従の関係は、現実的根拠があるわけではなく、ひとえに幻想にもとづいているのです。

ところが、日本軍は勇敢に戦って白人を屈服させ、その後現地のアジア人の目の前で捕虜の白人をわざわざ侮辱的に使役しました。

アジア人は、日本軍の勇敢さに強く印象づけられ、そして、白人が怯えて日本軍に降伏し、その命令に卑屈に服従するのを見て、なあんだ、白人なんてこの程度のものだったのかと、白人幻想から解放され、われわれだって、勇敢に戦えば白人に勝てるのだという現実を発見したのです。

日本軍がアジア解放のために具体的にどうしたとか、こうしたとかいうことよりも、何よりも、アジア人におけるこの白人幻想の崩壊がアジア解放の大きな力となったと思います。

捕虜だった元オランダ兵やイギリス兵がいまだに日本を恨んでいるのは、馬鹿にしていた現地人の目の前で日本兵に侮辱されたからでしょうね。

しかし、いずれにしろ、日本軍はアジア解放を意図して戦ったのではないのですから、事実を歪めるのはよくないと思います。

『プライド(映画)』では、日本軍のインド進攻とインドの独立とが関係があるかのように描かれていますが、もし、関係があるとしても、風が吹くと桶屋が儲かるような関係だと思います。

無理にこじつけてみますと、ビルマにいた日本軍がインドに進攻することになったのが事の始まりです。

インパール作戦です。

かつてイギリス軍の配下にあって、マレー半島やシンガポールでイギリス兵と一緒に日本軍の捕虜になっていたインド兵がインド独立をめざすチャンドラ・ボースによって組織され、作戦に参加しました。

ボースと彼に従ったインド兵だちはインド独立のために戦ったのですから、インパール作戦が部分的にはインド独立のための作戦であったことは否定できませんが、それはあくまで「部分的に」であって、インドに進攻した日本軍がインド独立を目的としていたわけではありません。

インパール作戦は、補給を無視した無謀な作戦として悪名高い作戦で、必然的に惨敗しました。

十万余の兵が攻め込んで、生きて戻ってきたのは二万ほどだったとのことです。

帰ってこなかった八万のうち、敵弾に当たって戦死したのは少数で、ほとんどは餓死と病死だったと言われています。

戦後、インド支配をつづけようとするイギリスは、インパール作戦に参加したインド兵を反逆罪で裁判にかけ、処罰しようとしました。

インド独立のために戦った者を反逆罪で裁くとは何事かとインドの民衆が怒り、裁判に対する大規模な抗議運動が起こり、イギリスは裁判を断念せざるを得ませんでした。

これがイギリスのインド支配の終わりの始まりでした。

というのは、ここがイギリスの植民地支配のきわめて巧妙なところですが、イギリスは、単に軍事力だけでインドを支配していたのではないからです。
その支配を正当化する論理の力もイギリスのインド支配の不可欠の要素でした。

言ってみれば、理論武装も、軍事武装に劣らず、しっかりしていたということです。

インド支配を維持するためには、インド人も大英帝国の臣民であるという建て前を崩してはなりませんでした。
この建て前を守るためには、インパール作戦に参加したインド兵を反逆罪で処罰しなければなりませんでした。

したがって、彼らの裁判ができなかったということは、この建て前が崩れたということであり、この建て前が崩れたということはイギリスのインド支配を正当化する論埋か破綻したということであり、すなわち、論理にもとづくインド支配は終わらざるを得なかったということです。

このように、イギリスのインド支配は、インドを占領していたイギリス軍がインド軍に敗北したからではなく、支配を正当化する論理が破綻したから終わったのですが、そのきっかけをつくったのが日本軍であると言えば言えないこともないわけです。

しかし、これをもって、日本がインドをイギリスから解放したと言うのは、さっきの、風が吹いたから桶屋が儲かったと言うのと同じでしょう。

日本軍がインドに進攻し、イギリス軍を撃滅して、あとはインドの民衆にすべてを任せてサッと引き上げたというのなら、そう言えますが……。

いずれにせよ、日本軍のインド進攻とインド独立とは、日本軍のインドネシア占領と、インドネシア独立ほどの関係はありません。

(~後略/引用終了)

?

No title
インドの隣国、スリランカの方の言葉です。
↓↓↓

海洋考古学者のS.デヴェンドラの父親(校長)

「私たちは日本によって愛国心を得た。それは、すべてのアジアの国々に もたらされた。

戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリ ランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得た。
私たちは 日本に感謝しなければならない]


サヨク連中に聞かせたいですね。

藤原岩市中佐のような人間味にあふれる、真面目な日本人が大勢いたからこそ、アジアの多くの国の人たちは自尊心を取り戻し、独立しようと立ち上がった。

中韓人の言う、刀で切りまくるとかそんな恐ろしい野蛮な軍人ばかりだったら、、、インドも他の国民もついてくる訳が無い。感謝の言葉なんて出てくるわけが無い。


インド独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏

「日本の陸軍こそがイギリスの植民地支配から解放してくれた恩人」


1997年8月「インド独立50周年」の式典
独立の闘志であったレイキ博士

『太陽が空を輝かし、月光が天地を潤し、満天に星が輝く限り、インド国民は、日本の恩義を忘れない』


特アとは違い、、、恩を覚えている人たちとなら、きっと仲良くなれると思います。

杜若

No title
以前、一知半解様のブログにこんなことを書き込みました。

日曜日の、“たかじんのそこまで言って委員会”のある時のこと、この番組のメインパネラーの三宅氏が、靖国を訪れこのときの地図を見ての感想が、なんと馬鹿げた作戦かとおっしゃった時のことです。

しかしその時に、私は全く別の考えをしておりました。三宅氏の言われることは、兵站を無視した作戦にありました。

誰でも、その感想は持つことでしょう。‥‥普通の神経と思考力があれば‥‥。
私の、感想とは、そんなことは戦争のプロなら分かり切っていたであろうということでした。
そして、インパール作戦に参加した戦士に、日本人としての矜持を失った方はおられなかった。

私には、そこに馬鹿なとは言い切れないものを感じました。

インドの独立のためにあえて、死地に飛び込む、そんな感情が無かったのかと。
これ以上の表現は、ねずきち様以上の愛国主義になるかもしれませんが。
しかし、そう思わずはおれません。
当時の日本人には、それは痛いほど分かっていたはずです。
それが、どれほど無謀な作戦であったのかということを。

しかし、それを思わずして、かの時の心情が語れるとは思いません。アジアの解放に命をかけた方々の意志を思わずにはおれません。

今宵は、ねずきち様以上の愛国心を語ってしまいました。
しかし、この考え方は間違ってはいないと思います。

pantera rosa

左翼に依る差別の再生産
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
近日発売
『日本書紀』(タイトル未定)

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