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出光佐三氏

「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。
東京12チャンネルの番組です。
この放送は、昭和39(1964)年8月から続くご長寿番組で、当時、TBSとの専属契約を打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団の活動の場を与える意味で始まった番組です。
この番組は、番組途中でCMを入れない構成であることでも知られていて、現在もそれは守られています。
番組スポンサーは、出光興産です。一社だけの提供です。
番組途中でなぜCMが入らないかというと、番組スポンサーの出光興産元社長、出光佐三(いでみつさぞう)氏の「芸術に中断は無い」という考えに基づくのだそうです。
出光佐三氏は、出光興産の創業社長です。
その佐三氏に有名な言葉があります。
~~~~~~~~~~~~
社員は家族だ。
家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。
会社を支えるのは人だ。
これが唯一の資本であり今後の事業を作る。
人を大切にせずして何をしようというのか。
~~~~~~~~~~~~
出光佐三氏は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通したといいます。
彼は四無主義を提唱し、それをつらぬきました。
四無主義というのは、(1)クビを切らない、(2)定年を設けない、(3)出勤簿を作らない、(4)労働組合をつくらない、というものです。
戦後、欧米からマネジメント手法として輸入され、いまではごくあたりまえになっている、リストラ、定年制、勤怠管理、労組とは正反対の思想です。
もっというと、昨今の、すぐにリストラだの若年定年制だのと、部下の首ばかり切りたがる「西洋かぶれ型経営者」とは、まったく異なる経営哲学です。
出光佐三氏にいわせると、「社員は、雇用しているのではなくて、家族なのだ」です。
佐三氏は、これを「人間尊重主義」、「大家族主義」の経営哲学と呼んでいます。
出光佐三氏は、明治18(1885)年、福岡県赤間村(現・宗像市)で生まれました。
生家は、地元で藍問屋を営んでいて指折りの資産家だったといいます。
そして出光家の先祖は、大分にある宇佐八幡宮の大宮司だったそうです。
ところが、小学校に入った佐三は、病弱でひどい近眼でした。
そのため本が読めない。視力が弱くて体力がないのです。
だから佐三は、本を読んで学ぶかわりに、なぜか、どうしてかを必死で考える習慣を身につけたといいます。
16歳で旧制福岡商業に入学します。
福岡商業では、ストライキの首謀者などをしています。
ついに学校側を屈服させたりするのだけれど、先生のミコを悪くして、卒業時の成績は下から二番目だったそうです。
20歳で、神戸高等商業(現 神戸大学)に入学した佐三は、そこで二人の師匠に出会います。
ひとりは、水島鉄也初代校長です。
校長は
「カネの奴隷になるな。
『士魂商才』をもって事業を営め」
と教えてくれたそうです。
武家の商法という言葉があります。
明治維新のあと、官職を失った多くの武士が「生き馬の眼を抜く」という商業界にあって、財産をなくし、路頭に迷いました。
そうした時代への反省から、明治の終わりごろには、国内には拝金主義が台頭していました。
そんな時代にあって、水島校長は、人を大切にせよ、武士道の精神をもって商売に励め、と教えたのです。
江戸の昔「もし期日に返済なくば、人前で笑われても異議なく候」と借金の証文に書いた武家と、とにかく儲かればよいという商家では、その基盤となる考え方がまるで違います。
武家の流儀では、商売には向かないというのが、一般の考え方です。
しかし水島校長は「それでも武家の心を失ってはならぬ」と説きました。
そして「男子たるもの、国家に貢献できる事業を営め」と生徒に説き続けます。
もうひとり、佐三はなくてはならない人と出会います。
内池廉吉教授です。
教授は、
「これからの商人は、生産者と消費者を直結し、
その間に立ち、相手の利益を考えながら
物を安定供給することにその価値がある」
と教えます。
この時期、佐三の実家は商売が傾きかけていました。
家からの仕送りもなくなり、佐三は家庭教師のアルバイトをします。
彼が教えた子供の親に、日田重太郎という名の大変な資産家がいました。
日田重太郎の趣味は、神社仏閣を巡拝だったそうです。
たまたま佐三の実家の出光家が、宇佐八幡宮の大宮司の家柄だったことから、佐三は宗像神社を無条件に尊崇していました。
そんな佐三に日田重太郎はすっかり惚れ込みます。
明治42(1909)年、神戸高等商業を卒業した佐三は、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店します。
酒井商店は、小麦粉と機械油を売っている従業員4、5名のこじんまりした商店です。
神戸高等商業(現:神戸大学)の卒業生なら、学士様です。
なぜこんな小さな会社を選んだのか、学友たちはいぶかり、あげくに佐三は「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」とさえ非難を受けます。
しかし佐三は、周囲の非難などまったく意に介しません。
なるほど大企業に入れば、収入も多いし生活も安定する。
しかし、仕事の一部しか担当できないではないか。
将来、独立して事業を営もうとすれば、仕事の基礎を一から覚えなければならない。
であれば小さな会社の方が仕事を覚えやすい。
そしてこれからの時代は、必ず石油の時代になる。
酒井商店は、油を扱っていたのです。
大学を出ていながら、尋常小学校卒がなるような丁稚になり、前垂れのはっぴ姿で自転車に乗って集金に駆け回る。
ところが、独立自営を夢見て走り回る佐三に、困難が待ち受けます。
実家の藍屋の商売がいよいよ傾き、もうやっていけれる状態ではなくなったのです。
一日も早く、独立開業しなければならない。
丁稚奉公では、給金はタカが知れているのです。
しかし、丁稚のままでは、仕事は幅広く覚えるけれど、独立開業のための資金が貯まらない。
いまどきのように、ベンチャー向けの開業資金融資制度なんてオイシイ制度はまったくなかった時代です。
そんな佐三のもとに、ある日、日田重太郎が現れます。
そして日田は、当時のカネで六千円(現在のお金でだいたい1億円)を、「貸すのではなく、もらってくれ」と申し出ます。
「京都にある家が売れて、六千円の現金ができたから、それを君にあげよう」というのです。
しかも、「貸す」のではなく「あげる」といいます。
ただし条件が三つあります。
第一に、従業員を家族と思い、仲良く仕事をすること。
第二に、自分の主義主張を最後まで貫くこと。
第三に、自分がカネを出したことを人に言うな、
というのです。
佐三は迷います。
「自分にできるだろうか・・・」
そして佐三は、決意します。
水島校長の言われる「人道主義と士魂商才の商人となろう。そうなることで、この日田さんへの恩返しをしよう!」
ここに大切なポイントがあります。
日田氏の大金の寄付は、もちろん佐三の人柄を信頼してのことではあるけれど、佐三の実家は、このときすでに傾いていた。
そして日田氏が出した条件は、3つとも、無形のもの(=インタンジブル)なものであるということです。
要するに、拝金志向というのは、「いま、カネを持ってる、いまカネを稼いでいる、いま贅沢な暮しをしている」というように、とかく上っ面の現実だけをみてしまいがちです。
そうすると、いまふうにいえば、月におかあちゃまから1500万円ものお小遣いをもらえるポッポなどは、とびっきり高い価値のある人間となる。
ところが、そうした拝金志向ではなくて、無形のものに価値を訪ねてみると、60にもなっておかあちゃんにお小遣いをたかるような腰ぬけにはまるで価値などなくて、自力で立ってひとつの価値を創造しよう(この場合、人道主義と士魂商才)とする男への投資が、まさに価値を持つようになる。
明治の終わりごろの日本には、まだまだそういう無形のものを大事にするという日本人本来の文化的価値観が、色濃く残っていたということができます。
ともあれ、そんな次第で、佐三は明治44(1911)年6月、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に出光商会を設立します。このとき佐三、25歳。後の出光興産の旗揚げです。
事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額を掛けます。
商品は、日本石油下関支店の機械油を扱う特約店です。
ところが案に相違して、肝心の機械油がさっぱり売れない。
ひとつには石炭から電気モーターへの切り替えの時代で、機械油の需要そのものが減っていたことと、もうひとつは、佐三の商売の姿勢です。
機械用の油ですから、当然、営業の相手は工場や商店です。
商売人同士のお付き合いです。
袖の下はあたりまえ。値引きダンピングは、あたりまえ。
ところが「士魂商才」を掲げる佐三は、「そんなことまでして売る必要はない!」とにべもない。
おかげで日田からもらったお金は、3年で底をついてしまいます。
さすがの佐三も、憔悴しきって日田を訪ねます。
「申し訳ない。廃業したい」と申し出る佐三に、日田は言います。
「三年で駄目なら五年、五年で駄目なら十年と、なぜ頑張らんか。さいわい神戸にまだ私の家が残ってる。それを売れば当面の資金には困らんだろう」
日田の断固とした姿勢に、佐三は慄然とします。
甘かった。
日田さんは、本気で命がけでワシを信じてくれている。
こうなりゃ、なにがなんでも前に進むしかない!
日田さんに家を売らせるわけにはいかん!
佐三は必死に考えます。
単に目先の売上げの確保ではない。
もっと抜本的に、強気で士魂商才を実現するにはどうしたらよいのだろう。
佐三は考えに考えます。
で、「海賊」をやった。
「海賊」といっても、船を襲うのではありません。
夜中の十二時から二時ごろにかけて、漁船がエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えたのです。
漁船のエンジンは「ポンポン蒸気」と呼ばれるツーサイクルの焼き玉エンジンです。
焼き玉エンジンには、燃料油として「灯油」が使われます。
佐三は、帰ってくる漁船が岸辺に着く前に、伝馬船で漁船に近づき、海の上で「灯油」の代わりに「軽油」を売った。
しかも下級の「軽油」です。
「灯油」と違って下級の「軽油」で焼き玉エンジンを回すと、クサイ。
しかし値段は安い。灯油の半値です。
当時の燃料油店というのは、油を元売りから買ってきて消費者に売ります。
小売りは特約店の仕事で、特約店は下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれて、縄張りを作っています。
当然、漁師が陸にあがったら、その港を縄張りとしている特約店が商いをする。
だから佐三は、「縄張りのない」海上で、油を売ったのです。
で、文句を言われると、「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い張った。佐三が「海賊」と呼ばれたゆえんです。
多少ニオイがあっても、値段が半値の軽油販売は大当たりします。
佐三はさらに工夫し、揺れる船上での油の販売のために、「計量器付給油船」という海上給油装置まで開発し、事業を軌道に乗せます。
いったんは廃業まで決意したこの年(大正3年)、佐三は南満州鉄道への車軸油の納入に成功します。
当時、南満州鉄道で使う油は、スタンダード社などの外国の油が独占していたのです。
独占は癒着を生み、癒着は高いコストとして跳ね返えります。
佐三は、そのからくりを見抜き、満鉄当局に粘り強い交渉します。
国産油の品質の良さを実験とデータで示し、それを使うことが、満鉄に利益をもたらし、国益にも適うことを具体的に示したのです。
さらに大正8(1919)年には、貨車のトラブルが続出してた南満州鉄道に、酷寒でも凍結しない「ニ号冬候車軸油」を納入して、満鉄から感謝状と銀杯を受領します。
ところが、大正13(1924)年、第一銀行(現みずほ銀行)が、突然、25万円の借入金引き揚げを要請してきます。
これは、ある意味、大手の金融機関によく見受けられることといえます。
つまり、業績好調で借入金の多いオーナー企業に対し、突如資金の引揚の要求をする。
引揚に応じられないなら、TOPが辞任し、銀行員を社長他役員、重役に迎えろ、というものです。
さすがにこのときは佐三もまいったらしく、一時は自殺説までささやかれる。
しかし二十三銀行(現大分銀行)の林清治支店長(当時)が、肩代わり融資を決めてくれ、佐三は、ぎりぎりで窮地を脱します。
そして、昭和7(1932)年には、門司商工会議所会頭に就任。
昭和12(1937)年には、高額納税者として貴族院議員となり、初登院しています。
(ちなみに現行の日本国憲法は、衆参両院の過半数の賛成で占領化の最高法規として廃止を決定することができます。この場合、大日本帝国憲法が復活する。憲法改正だと、衆参両院の三分の二、国民投票の過半数の賛同が必要だけれど、「廃止」なら、簡単に日本国憲法を破ることができる。ただし、単純に大日本帝国憲法が復活した場合、貴族院(参議院)は、高額納税者が議員となることがあります。そして現在の日本では、在日コリアンで高額納税者となっている者が非常に多い点には注意を要します)
佐三は、満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらに日中戦争の拡大と共に、中国本土に拠点を拡大します。
出光商会は、この時期に、従業員千名程を抱える大会社に成長します。
昭和15(1940)年には、「出光興産株式会社」を設立する。
そして終戦。
日本は外地を失い、国内は焦土と化し、佐三もすべてを失ないます。
昭和20(1945)年8月17日、 出光佐三は、終戦の2日後であるこの日、社員二十人を集めて訓示します。
「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」
「泣き言をやめ、日本の偉大なる国民性を信じ、再建の道を進もうではないか!」
と訓示します。
そしてさらに1ヶ月後、佐三は驚くべき宣言をします。
「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」というのです。
当時の出光の全従業員数は、約一千名です。
そのうち約800名が、外地からの復員者です。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失ったのです。
資産もない。事業もない。膨大な借金があるだけです。
どうやって復員者を受け入れるというのか。
どう考えても、やりくりできるはずがない。
多くの企業は、ガンガン人員整理しています。
そんな中で、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言したのです。
いい加減なことを言ったのではありません。考えに考えての結論です。
そしてこの宣言は、佐三自身の決意の表明でもありました。
どうにもならないどん底に落とされても、なお道は必ずどこかに通じている。
「道、極まって尽きず」は、尾崎行雄の「人生劇場」の台詞です。
佐三自身、どうにもならない、廃業するしかない中で、若い頃、事業のチャンスを得た。その成功体験が、佐三自身の信念になっていたのかもしれません。
出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、何でもします。
ラジオも売った。醤油も売った。酢も売った。
畜産や養鶏にも手を出した。
思いつく限りのことに手を出した。
しかし、付け焼刃の仕事は、どれもうまくいきません。
どうしようもなく追い詰められて、一部の社員には自宅待機命令を出さざるを得なくなります。仕事がないのです。
それでも佐三は、佐三は戦前に集めた書画骨董を売り払い、銀行から可能な限り借金をして待機組にすら給料を払い続けます。
復員後、気力を失い、郷里に引きこもっていた青年がいたそうです。
その彼が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、父親が彼を烈火のごとく叱ったそうです。
「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれたんだ。
それが辞めるとは何ごとか!
すぐ、出光さんにお礼の奉公をしろ。
6年間、ただで働いて、それから帰ってこい!!」
青年は思い直したといいます。
待望の石油事業に復帰する機会は、意外に早く訪れます。
GHQ(占領軍本部)が、旧海軍のタンクの底に残った油を処理し活用せよ」と指令を発したのです。
タンクの底に入って、油を汲み取る作業です。
タンク内にはガスが充満し、窒息や中毒の危険があり、しかも爆発の危険もある。
普通なら誰もが請けない。請けない仕事だから日本人にオハチが回ってきたのです。
佐三は「これで石油界に復帰する手がかりができた」と喜びます。
全社員を動員してタンクの底さらえ作業を開始します。
廃油にまみれ、泥まみれになり、鼻腔を悪臭がつく。手足がただれる者もいる。
たいへんな作業です。
しかし誰もねをあげない。
俺たちは石油屋だ、油の扱いは俺たちの仕事だ、という誇りに満ちていたといいます。
「底さらえ」作業は、約1年半に及びます。
出光興産は、廃油2万キロリットルの汲み取りに成功します。
このときの丁寧な仕事ぶりはGHQと、その背後にいる米国石油メジャーに強烈な印象を残します。
これが、後に正式に石油界に復帰する足がかりとなり、出光蘇生の原点となる。
いまでも「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となっています。
昭和28(1952)年3月のことです。
この時期、イランは英国資本の油田を強制的に摂取して国有化したため、英国と国交断絶状態になっていました。
英国海軍は報復のため、ペルシャ湾を航行するタンカーを監視し、イランから石油を積み出そうとするタンカーを拿捕しようとしていました。
このことは、イランにとっても、肝心の石油を売ることができないという、状況を招いてもいました。
いま、イランに行って石油を積み出せば、石油を安く仕入れることができ、さらにイランと日本の国交を切り開くことができる。
佐三は、当時出光興産が所有していたただ一艘のタンカー「日章丸二世」に密命を与えます。
日章丸二世が向かう先は、サウジアラビアということになっています。
しかし、船長と機関長の2名だけが、実はイランに向かうと知っている。
成功すれば、一艘の積荷で、二億円の儲け。
タンカーが拿捕されて失敗すれば、4~5千万の赤字となり、さらにただ一艘のタンカーを失うことで出光興産は倒産します。
日本は、この前年に、占領から独立したばかりです。
その日本が、連合国の一員である英国の横面を張り倒す行動に出るのです。
神戸を出航した「日章丸二世」は、18日後、ひそかにイラクのアバダンに入港します。英国の監視下にあった港に入港したのです。
このニュースは、まさに世界のトップニュースを飾ります。
そして世界中が注目する中、イランの石油を満載した日章丸は、夜陰にまぎれ、他船との交信さえも一切止めて、ひそかにペルシャ湾を抜け出します。
そしてインド洋を横断し、約一カ月かけて、無事、川崎に入港します。
このニュースは、占領に打ちひしがれていた当時の日本人の心を奮い立たせます。
そして、世界に日本の海運技術の凄味を見せつけた。
また、イランと日本の信頼関係の絆を深めます。
これに対し、英国アングロイラニアン社が「待った」をかけます。
積荷の石油は、英国のものであるというのです。
そして東京地方裁判所に提訴する。
この裁判のとき、佐三は東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に次のように述べています。
「この問題は国際紛争を起こしております。
私としては、日本国民の一人として、
俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、
裁判長にお誓いいたします」
日本人、ここにあり!です。
裁判に勝利した佐三は、昭和31(1956)年、徳山湾に日本一の製油所を建設します。
製油所建設の竣工式に、佐三は大恩人である日田重太郎を招待します。
すでに82歳の高齢になっていた日田に佐三は、
「すべてあなたの御恩のおかげです」と述べた。
日田は、
「あなたの努力と神様のご加護じゃよ」と言って、佐三に手を差し出した。
佐三はその手をしっかりと握りしめ、離さなかった。
日田が神戸に住んでいた頃、佐三は神戸支店員を毎晩、日田家に派遣し、年老いた重太郎の晩酌の相手を命じていました。
夏には軽井沢にある出光の別荘を日田のために提供しています。
淡路島で行われた日田の葬儀は、出光興産の「社葬」として、佐三自ら参席し、生涯の大恩人に報いている。
佐三は、日田への恩を、生涯をかけて報いたのです。
昭和56(1981)年、95歳で出光佐三は人生の幕を下ろします。
佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、
「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。
40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。
あとは言葉にならなかった。
佐三は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通した人です。
佐三のモット-は、
「人間尊重」
「大家族主義」
「黄金の奴隷たるなかれ」
「生産者から消費者へ」だった。
若き日、師匠から教わった教えをそのまま、生涯にわたって実践した。
佐三は、皇室を崇敬することが極めて篤く、また出光興産の東京本社には佐三の郷里の氏神である宗像神社が祭っています。
佐三が逝去したおり、昭和天皇は、佐三に次の歌を贈っています。
~~~~~~~~~~~~
国のため
ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ
(出光佐三逝く 三月七日)
~~~~~~~~~~~~~
会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。
それが日本流の考え方です。
ねずきちの友人で鉄工所を営むある社長は、不況のあおりで工場の受注が減り、売上がピーク時の5分の1になったけれど、彼は必死で従業員の雇用を守り続けた。
自分の給料なんてありません。
それでも社員の給料は払い続けた。
そして自分の子供がまだ小さくて、生活費がないと困るからと、彼は夜間の運転手のアルバイトをして、自分の家族の生活も守り抜いています。
別な社長は、やはり社員の雇用を守りぬくため、会社の売上はそっくり社員の雇用のために使い、自分の生活費は夜間警備のアルバイトをして賄っている。
企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)の闘争の場である、と説いているのは、共産主義です。
経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、西洋風の企業です。
しかし、日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。
西洋風でもない。共産主義風でもない。
日本風の商家の考え方は、「社員は家族」という考え方です。
なにごとも西洋かぶれするのではなく、私たちはいまあらためて、日本流経営学というものを学んでみる必要があるのではないでしょうか。
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コメント
石川 忠
今日本に一番足りないのが、出光佐三氏のような人が居ないと言うことを痛切に感じます。人間には能力の差があることは仕方がありません。しかしそれは単純に個人の努力の差ではありません。したがって力のあるものは、無きものを支える余裕が大切です。人生必ず良い時悪い時があります。その時に支えあってこそ素晴らしい社会ではないでしょうか。出光佐三氏の哲学に大いに共感を覚えます!
2013/05/28 URL 編集
-
大阪府在住
2013/04/22 URL 編集
サバトラキララ
少しでも多くの人に、出光氏の事、共に ねずさんの ひとりごと を知って欲しくて 自分のブログに引用させて頂きました。
2012/10/23 URL 編集
通りすがり
出光を退社してやってきたおじさんがあまりに仕事ができないうえに自分では出光ですごい仕事をやってのけた的な自信を持った人で本当に困っています。その他もろもろ空気読めないKYオヤジで最近のストレスの1番の原因です。ってこんなところで愚痴っても仕方がないのですが・・・。
2012/03/12 URL 編集
りょうこ
それが日本流の考え方です。とは、私も思います。
されど、大きな会社は、わからないのでしょうか・・・
2010/12/14 URL 編集
竹心
満鉄の油を運んでいた出光さんは寒冷地で苦労をなさっていたと言う事でした。
『題名の無い音楽会』の招待状も戴き夫婦で毎回出かけ黛敏郎氏の話にうっとりしていました。
当時は三島由紀夫氏、薬師寺の高田孝胤氏が時代の三人男でした。
その時代の人はみんな他界してしまいました。
懐かしく読みました。ありがとうございました。
竹心
2010/09/03 URL 編集
出光クビ
2010/06/23 URL 編集
kororin
日本が領有を主張する日本海の孤島「竹島」は、日米安保の適用外とする政府答弁書の閣議決定を行ったのだ。つまり、日本があれだけの負担をしながら維持している在日米軍が日本防衛のために軍事力を行使する地域に、竹島は入らない、と日本政府が断言したのだ。
これは、国民新党の亀井亜紀子参院議員の質問主意書に対する回答だった。その理由は「我が国が施政を行い得ない状況にある」ためだという。日本政府は竹島について、「国土外通告」を行ったようなものだ。竹島には、「〒685-0000 島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地」との日本の住所表記があるにもかかわらず、だ。
「いわば実質的な領土放棄です」と防衛省幹部は苦しい口調で話す。
2010/03/22 URL 編集
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国会改正法案の危険性
①国会で答弁する政府特別補佐人から内閣法制局長官を除く。→「余計な解釈するやつは国会出てくんな」
②副大臣・政務官の定数を増やす。→「脱官僚にみせかけ内閣の方針に従う人間を増やす」
③政府参考人制度の廃止。→「余計な説明するやつは国会出てくんな」
④行政機関職員や学識経験者のからの意見聴取会、開催。→「民主 支持母体の意見重視」(日教組、自治労、民団、解同 等)
つまり、法の番人を締め出し、違憲を合憲としてやりたい放題できるようにする計画。
内閣法制局長官とは?:その場で閣僚からなされる法令等についての質問・照会に応える必要性から、認証官以外の者でありながら常時閣議への陪席が許される唯一職
3月19日時点
外国人参政権が違憲であることを内閣法制局長官に国会答弁されたら困る。
↓
内閣法制局長官の国会答弁禁止を発表。
↓
最後まで小沢に屈しなかった宮崎氏を事実上更迭。
↓
国会法改正に反対する生方氏を副官次長から解任。 ←いまここ
↓
外国人参政権法案提出。
↓
千葉法相が合憲判断。
↓
成立。
2010/03/22 URL 編集
otama
「核持ち込み」の「密約」をばらす危険な素人外交の冒険
外交に密約、機密があるのは主権の行使であり、当然ではないか
外交の素人が集まってガイコウのまねごとをしている。素人というより小学校のPTA総会の阿鼻叫喚に似ている。鳩山政権のことである。
密約を暴露することに政治生命をかけるのは愚の骨頂である。
▲核は持ち込まれていた!
もともと「核は持ち込まれていた」という爆弾発言をライシャワー元大使にインタビューして(81年5月)、引き出したのは古森義久氏だった。
■【18禁激グロ注意】自由と権利の果てにある混沌。
東京都の青少年育成条例では、サザエさんのワカメちゃんやドラえもんの静香ちゃんも安心してお風呂に入れない状況だそうですが、皆さんは表現の自由の制限について、どうお考えですか?
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1161779
2010/03/22 URL 編集
ぽこぺん
禁輸措置中の原油買い付けの時
その時、石油をイラン?国王に謁見して進物を室町時代か鎌倉時代の短刀をこれが日本の心だ!石油を売ってくれ!と贈り物を渡して購入許可が出たと聞いたことがあります。
2010/03/22 URL 編集
あ太郎
労使交渉で、組合側が経営陣を糾弾してつるし上げたり、経営者が社員にリストラをほのめかして脅すのとは、天と地ほどの差がありますね。
2010/03/22 URL 編集
にっぽんじん
会社内での人の呼び方は「○○さん」でした。社長も部長もありません。何故かわかりませんがそれが社風でした。いまでも変わりません。
仕事を楽しむことが目標でした。金ではありません。私は「給料の明細書」は見ませんでした。
会社が苦しい時期もありました。その時にはリストラではなく全社員が賃金を下げて乗り切りました。役員は賞与もありません。
そんな変わった会社が出光です。今でも変わっていないと思います。
2010/03/22 URL 編集
プゥームオールール
2010/03/22 URL 編集
杜若
言うは易し。ですね。
時間が経過するごとにそんな変質しない生き方が輝きを増していく。だからこそ価値が有ります。
今は誰もが功利主義に走りがちです。ある面それは正しい。
しかし、そんな生き方を粋とは誰も思わない。
誰もが良心を無くした生き方が、功利的だとは思うが多くの人達はそれを良しとしない。
そこに真理が隠れているからと思うからこそと思います。そこは感性の部分かと思います。
感性からの判断は漠然とはしていても正しいことが多いと思います。
そして、日本人の感性はどの民族にも勝ると思っています。
2010/03/22 URL 編集
けい
題名の無い音楽会は見させていただいています。
ユニークで、子供も楽しめますよね。
出光氏、そんな素晴らしいお話は、もっと人々に
知られて良いと思うのですが。
どうして、日本は良い事をアピールしないのでしょう?
アピールしないから、どんどん海外の普通のもの
でもアピールのうまいものの下に隠れてしまって、
日本人の若者に日本人の粋な心使いや素晴らしい
行為が継承されづらいのかも・・・。
出光、私も、これから出光ファンになります。
音楽会ですでにたくさん頂いているので、
何か恩返しできる、それは、出光の利用と
出光氏の家族・社員の皆さんへの感謝と、
そして、この素敵なお話を他の人達へ
継承すること、それくらいは私にも出来そうです。
2010/03/22 URL 編集
bb
お茶室には季節によって変わる、茶道具、掛け軸などが展示されています。
だからいつ行っても厭きません。とくに奥にある陶器片の収蔵がいいです。
無料の煎茶のサービスもあります。そこからは窓を通して桜田門警視庁が見えます。景色もいいです。
帝国劇場のビルにありますので、お近くの人は一度どうぞ。
「題名の無い音楽会」は黛氏が司会をしていた頃から見ています。この頃は見なくなってしまいましたが、文化芸術に対する造詣も深かったと思います。
2010/03/22 URL 編集
CJ
NHKが受信料の支払いを拒否していた札幌市中央区の男性に約12万円を請求した訴訟の判決が19日、札幌地裁であり、杉浦徳宏裁判官はNHK側の請求を棄却した。NHK広報局によると、受信料の督促を巡る訴訟で、NHKの訴えが認められなかったのは全国で初めて。
判決によると、男性は妻が契約したことなどを理由として、03年12月から08年3月まで52カ月分の受信料約12万円を支払っていない。NHK側は「民法は日常家事について夫婦が連帯債務を負うと定めている」と主張していた。
NHK広報局によると、受信料の督促を巡る訴訟でこれまでに全国で簡裁27件、地裁1件の判決が出ていたが、すべて受信料の支払いを命じるものだったという。【水戸健一】
3月19日 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100319-00000050-mai-soci
■NHKを解約する方法■
■最もスムーズ且つお得な方法。
0120-151515(受付時間は毎日午前9:00~午後8:00)に電話して「テレビが故障したので、廃棄しました」と言いましょう。
すると、手持ちの葉書に廃止届を書いて地元のNHKの営業部に送る旨書式、宛先等、丁寧に教えてくれます。
この場合は、支払過多の料金が戻ってきます。例えば10月支払月で1年払い契約の場合、申し出があった今月の分から 9月までの5ヵ月分が、引き落とし口座に入金されます。
入金があるのは、廃止届が届いてから約1ヶ月後だそうです。
その他に
■50円でNHKを解約する方法 追加バージョン
http://www.youtube.com/watch?v=eXHtr8nKn2k
2010/03/22 URL 編集
my日本@健全化を求める会
snsサイト「my日本」の宣伝広告が表示されているのにお気づきでしょうか?
私は、基本的には「my日本」の趣旨に賛同しますが、my日本には下の様な問題点があり、強く改善を求めていく必要があります。
●問題点
トップページに陰謀組織イルミナティが世界政府樹立・人類奴隷化計画を狙って暗躍している等とほのめかす動画を掲載しており
①情報リテラシーの高い人からは、馬鹿にされるか呆れられ、保守派の信用を落としてしまう。
②情報リテラシーの低い人の場合は、それを真に受ける危険性が高い。特に「中韓よりも本当に危険なのはイルミナティだ。中韓ばかり攻撃している既存の保守派は馬鹿だ」という様な彼らの主張を真に受ける人が既に何人も発生している。
③情報リテラシーが中程度の人であっても、情報判断が混乱させられる危険がある。
なお、これらのイルミナティ陰謀論の発信者は、反対意見に対して、かたくなにコメント拒否・アクセス拒否しており、sns内で盛んに一方的なプロパガンダ活動を行っています。
(ブログランキング49位の「お母さんのブログ」が代表的な例で、最近コメントを全削除し不可としました。sns内でイルミナティ関連のコミュニティを主宰しています)
つきましては、以下のアンケートを実施して、my日本の管理者に改善を要望したくご協力をお願い致します。
◆my日本のトップページで世界政府、イルミナティを常時設置紹介することに反対?賛成?アンケート
http://sentaku.org/seikei/1000018626/
現在、反対19票、賛成5票、どちらでもよい4票
↑アンケート投票にご協力下さい。
2010/03/22 URL 編集
JPN
2010/03/22 URL 編集
猪
この様な商人が日本の戦後を作り上げてきた事を現在の企業人は忘れている。
「出光伝」以後多くの経済人が自伝を作り企業の指針ともして居ます。西濃運輸も当時初代自伝を作り、社の方針として大きく国家に貢献して居る。
2010/03/22 URL 編集