魚沼産コシヒカリ物語



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冬の魚沼地方
冬の魚沼地方


魚沼産コシヒカリといえば、日本穀物検定協会の米食味ランキングで、、平成元(1989)年から、なんと21年連続で「特A」の認定を受けている国内最高評価のお米です。

値段も高いけれど、味もおいしい。

ずいぶん以前ですが、たまたま単身赴任した頃に、当時流行りのIH炊飯ジャーを買い込み、うれしくてスーパーで魚沼産コシヒカリを2kg買ってきたことがあります。

そんときの感動をいまでも覚えていて、さっそく炊いたご飯が、実にうまかった。

湯気のたった真っ白なご飯。
独特の甘み。

お米ってこんなにおいしいものかと、部屋で、ひとり大感動した覚えがあります。

「魚沼産コシヒカリ」の産地は、その名の通り、新潟県の魚沼です。

このあたりは日本海側気候です。
夏は晴天日が多くて、日照時間が長い。
しかも魚沼は、盆地のために気温の日較差が大きいのです。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒の良質米ができる。

同じ日本海側でも、稲の出穂期にフェーン現象があると、稲に負担がかるのだそうです。
それで甘みのもとになるデンプンの蓄積が足りなくなってしまう。

さらに、魚沼のあたりは、天下の豪雪地帯です。
そのことが、豊富な水量を生んでいます。
透明度が高くて、有機物の汚染のない、良質で豊富な水が、田んぼにはいるのです。

それだけ聞いたら、まさに日本一のおいしいお米の栽培に適している場所といえそうです。

しかし考えてみてください。

もともと「稲」という植物は熱帯性植物です。
稲は、稲は、水田で田植えをし、収穫期には田の水を抜いて収穫する。

これは熱帯性植物である稲を、温帯地方の日本で、人工的に熱帯性気候である雨季と乾季を、作りあげたものです。

対して新潟県は、もともと豪雪地帯です。
熱帯とは対極にある寒冷地でもある。

そういうところに、日本一おいしいお米が育っているのです。

実は、もともとは、新潟県は、米どころではありませんでした。

江戸時代には、天明の大飢饉、天保の大飢饉という2つの大飢饉で、飢えのために、村がまるごと飢えて全滅してしまうという事件も起こっています。

どちらかといえば、そもそも米の獲れにくい貧しい国、であったのです。
その中で、必死に頑張った人々がいたのです。
飢饉にもめげず、互いに助け合い、新潟の米作りを守りぬいたのです。


魚沼産コシヒカリは、昔からあったわけではありません。

開発されたのは、昭和19年。つまり戦時中です。
大東亜戦争の渦中で、食糧難となるなかで、新潟県のような寒冷地でもたくさんのお米がとれる品種はできないものか。

ひとりでも多くの人に、お腹一杯、ご飯をたべてもらいたい。
二度と飢えに苦しんでもらいたくない。
そう思って一人の技官が、戦時中に新潟で、新種の開発をはじめます。

しかし、空襲に遭い、田や家は焼かれ、資料も全部焼けてしまう。

最初に開発をした方は、心労と過労が重なって、53歳の若さでお亡くなりになります。

あとを継いだのは、戦地から復員してきた若者です。

若者たちが、必死に開発を続け、ようやく完成したのは、昭和31年です。

「越後の国に光輝く」

そんな意味を込めて、お米は「コシヒカリ」と命名されます。

しかし、稲穂にたくさんのお米を稔らせた新種の稲は、稲穂が重すぎてすぐに倒れてしまう。しかも病気に弱い。

新種の稲は、世間からもの笑いのネタにさえされてしまいます。

新潟の米を守ろうと、必死で新種の稲を支えた後任の研究所の所長は、ついに左遷され、免職にさえされてしまう。

それでも、あとを引き取った者たちが、必死で頑張り、ようやく誕生させたのが、「魚沼産コシヒカリ」です。

今日は、江戸の飢饉の物語と、コシヒカリのお話をしてみようかと思います。


新潟県内にある遺跡を見ると、ここには縄文の昔から人々が暮らし、古くから稲作も行われていたことが確認されています。

大宝律令の頃には、米ではなく絹織物などによる年貢の納品も認められていたのですが、江戸期になると、納税は、すべて米になります。
しかし江戸時代は気象環境が非常に厳しかった寒冷期です。

地味が痩せて、気候が寒冷だった国で、稲作がどれほどたいへんなものだったか。

とりわけ江戸時代の後期には、天明3(1783)年と、天保7(1836)年に大飢饉が起きています。
新潟県中部では、大秋山・矢櫃村、甘酒村・高野山村が飢饉のため、村自体が全滅している。

天明3年の飢饉というのは、今から227年前の事件です。

何が起こったのかというと、この年の7月に群馬県の浅間山が大噴火した。

噴煙が、空を覆いつくします。
記録によると、昼間でも提灯(ちょうちん)を持って歩かなければならなかったといいます。
このため夏が冷夏になった。
冷夏は、田畑の作物に影響を与え、収穫が激減してしまいます。

米も、野菜も収穫が激減した。

魚沼地方では、木の根や雑草を食べて露命をつなぎますが、なかでも秋山郷では、大秋山村と矢櫃村で、村人が一人残らず飢え死にしてしまっています。


それから53年後。
ふたたび飢饉が襲います。
天保7(1836)年の大飢饉です。

この年は、5月には大雨と洪水、9月には大雪が降ったのです。

そのため田畑の作物がまったく獲れなくなった。
食う者がなくて体力が落ちた人々を、さらに伝染病が襲います。

飢えと病気で、新潟の甘酒村・高野山村が全滅する。

50年前の悪夢が再来したのです。

このとき、庄屋さんに福原新左衛門さんという方がいました。
当時の庄屋さんというのは、いまでいったら農場の経営者といったほうが、わかりやすいかもしれない。

福原新左衛門は、村々を回って飢饉の被害情況を克明に調べます。
あまりに酷い惨状だった。

見かねた福原新左衛門は、小千谷片貝村で造り酒屋をしていた佐藤佐平治を尋ねます。

当時、佐藤佐平治は「忍冬酒」「粟盛酒」という薬用酒を開発し、これを江戸に出荷して大店になっていたのです。
江戸時代にも健康ブームはあったのですね。

この佐藤家という商店は、大店でありながら、飢饉のたびに、飢えに苦しむ人々を救っています。

なかでも第21代の佐藤佐平治は、天保の大飢饉のときに、自宅で酒を造る大釜を使って、お粥や雑炊の炊き出しをして、多くの人を救っていた。

近くの村はもちろん、遠くからも人々がつめかけ、月に千人以上の人々に毎日の食事を与えていたというからすごいです。

その佐藤佐平治を、庄屋の福原新左衛門が訪ねます。
そして秋山郷の飢饉の惨状を詳しく話した。
そして村への支援を要請します。

佐平治は、こころよく、これに応じます。

庄屋の福原新左衛門は、魚沼に帰り、村の人々にそのニュースを伝えます。
そして村から選抜された30人の若者が、食糧を受け取るために出発した。

魚沼郡から、片貝村まで、片道60キロの道のりです。
いまの暦だと12月ごろのことです。
この地方は、いまでも吹雪になると一時間ほどで自動車がすっぽりと雪に埋まってしまうほどの豪雪地帯です。
しかも当時はいまよりもっと気温が低かった。

片貝村に着いた人々は佐藤家で一泊し、翌日、受け取った米や稗(ひえ)の俵を一人一俵ずつ背負い、帰路につきます。

俵は30~40キロの重さがあったそうです。
往復4日がかりです。

この物資の運搬は、佐藤家で受け取った米や稗を背負って秋山郷まで、交代しながら七回にわたって行われたそうです。
のべ二百人以上の人たちが救援の食糧を運ぶ役目をはたしました。

気の毒なことに、当初、運搬をした農家の若者たちは、みんなはだしだったそうです。

片貝村の近くの真人村の庄屋だった福原太郎左衛門は、村の道を重い俵を背負って通っていく人たちが、雪の積もった道をはだしで歩くと聞き、「冷たかろうに」と、村人たちに言って大急ぎでわらじを作らせています。

やがて、できあがったわらじが秋山郷の人たちに届けられた。
わらじは千足あったそうです。
どんなにうれしかったことか。

こうして、佐藤佐平治からおくられた米や稗によって、秋山郷の人たちは命を救われます。

救援を頼んだ庄屋の福原新左衛門は、その後も米や稗の運搬や配分などについて寝食を忘れて取り組みます。
ただでさえ栄養事情が悪いのです。
寒風の中で、無理を重ねた福原新左衛門は、過労が重なってとうとう病気になってしまう。

新左衛門の娘は、父を一生懸命看病します。
しかし栄養失調と寒さと過労のため、その娘も一緒に亡くなってしまう。

新左衛門は、このとき、まだ43歳だったそうです。


このときの支援物資は、籾と稗が1200表(1080石)、昆布1万把、さらに御救方手金10両、さらに協力金50両もあったそうです。

一両は、現在の金額で約20万円相当です。
それが50両だと約一千万円です。
購買力平価で換算したら、いまの一億円くらいにあたるかもしれない。

さらに佐藤佐平治は、その50両を、自分が結東村から借り受けたことにして、利息7分(3両2分)を毎年村に払い続けてくれます。

なんとこの支払いは昭和42(1967)年まで続く。
実に135年間も、佐藤佐平治の好意は続けらたのです。


そういう志を継いで、この地をなんとかして救いたいと願った農林省の技官がいます。
時は、昭和19(1944)年、大東亜戦争の末期の頃です。

戦況は日に日に悪化し、全国的に食料事情がひっ迫していた。
ただでさえ農地が痩せた寒冷地の新潟では、いつまた飢饉になるかわからない。

すこしでも多くの米が収穫できるようにするためはどうすればよいか。
そのためには、米の品種を改良し、痩せた土地でもたくさんのおいしいお米が獲れるようにする以外にない。

この年の7月末、新潟県農事試験所に、そんな理想を抱いた高橋浩之という若者が主任技師として赴任してきます。

彼は、晩生(おくて)種の「農林22号」と、早稲(わせ)種の「農林1号」との組み合わせで、すこしでも実りの多い米を作ろうとします。

田植え作業には、県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借りた。
除草作業には、長岡市内の女学校に手伝ってもらった。

当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎氏は、当時を振り返って次のような手記を残しています。

~~~~~~~~~~
高橋さんのように、高官の主任技師で、素足で、真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。

あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした。
~~~~~~~~~

新潟という過酷な自然環境の中で、すこしでも多くの稲穂をつけ、収穫の多い米を作る。
そのために彼は、毎日何回となく、水田を自分ではい回ります。
ときには、過労のため、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともあったそうです。

しかし昭和20(1945)年になると、戦争激化のため育種事業は全面中止になる。

せっかく作った新種の米を、絶対になくしてはならない。
高橋は稲モミをガラスのケースに入れ、良好な乾燥状態を保ちながら大切に保管します。
開発のための詳細な記録も付けた。

ところが昭和20年8月1日、米軍機による空襲が新潟を襲います。
高橋の家は全焼。
育種に関する資料も全部焼失してしまいます。

田んぼはめちゃめちゃ。
研究室も灰燼。
家も焼かれ、資料も焼失してしまった。

このとき、高橋が防空壕に持って行ったのは、壊れやすいガラスのケースにはいった種モミだけでした。

戦争が終わります。

高橋は、春の訪れを待って、昭和21(1946)年、再び研究を再開する。
そして、この年の秋、高橋は晴れて「農林22号×農林1号」の米を収穫した。第一号です。

しかし戦後のドタバタのなかで、体調を壊した高橋は、人事異動で埼玉県・鴻巣の農業試験地へ転任になってしまう。
そして彼は、過労がたたり53歳の若さでこの世を去ってしまいます。


高橋の去った新潟の農業試験場に、昭和21年7月、外地から池隆肆が復員します。
池は昭和19(1944)年に出征し、終戦後一年経ってようやく復員して、試験場に戻ったのです。

高橋の志を継いだ池は、「農林22号X農林1号」の第2代の生育に取り組みます。
そしてようやく刈り取りの季節を迎えた。

けれども、新種の「農林22号X農林1号」は、大量の稲穂をつけた分、稲穂が重い。
そのため、多くの稲が収穫前に倒れてしまいます。

当然「農林22号X農林1号」の評価は芳しくない。

当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が、育種関係の農林省内の会議で、

「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。
捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が残っています。

高橋の開発した「農林22号X農林1号」は、その研究の場を福井県に移されてしまう。
使い物にならない「捨てる品種」とみなされたのです。


ところが翌、昭和23(1948)年6月28日、福井で大地震が起きました。
試験田にある稲は、水が抜けたり土砂が噴出したりして、栽培していたほとんどが壊滅してしまったのです。

そんな中で高橋が開発した「農林22号X農林1号」だけは、「捨てる品種」として、水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていた。

その「農林22号X農林1号」だけが、元気に生き残っていたのです。

そんな事件から、昭和25年ごろには「農林22号X農林1号」の評価が高まり、福井農業試験場では、「農林22号X農林1号」に、「ホウセンワセ」という名前をつけます。
そして20府県で適応性試験のための生育をすることになる。

ところが評価は芳しくない。

米をたくさんつけ、他の品種よりも早く収穫できるというメリットがある一方で、稲穂が重すぎて、収穫前に、多くの稲がべったり倒れてしまうのです。

この新潟生まれの「ホウセンワセ」をふたたび新潟に取り戻したのは、当時、新潟県農業試験場長の所長だった杉谷文之です。

彼は、昭和31(1956)年に「ホウセンワセ」を正式品種にするよう、農林省に申請します。
たまたま順番で、この「ホウセンワセ」は、「農林100号」というキリの良い名前をもらう。
気をよくした杉谷は、この新種に、未来への夢を込めて「越の国、光り輝く=コシヒカリ」と命名します。

その後も杉谷は、コシヒカリを定着させようと、農林省への申請を続け、昭和34年には有望品種としての表彰までしてもらいます。

しかし、コシヒカリは、いっこうに農家には定着しません。

当時はまだ米は「配給米」の時代で、うまい米もまずい米も、政府の買い入れ価格は同一です。
農家としては品質向上よりも安心して収穫できる品種を育てる。
いくら味が良いと言っても、倒れやすくて、イモチ病に罹りやすいコシヒカリでは、経済的メリットが少なかったのです。

杉谷所長は、ついに農林部参事に左遷されてしまいます。
そして昭和37年12月には依願免職になってしまう。
彼は失意のうちに故郷の富山に引きこもります。

しかし、高橋、池、杉谷の意思を継いだ新潟農業試験場のスタッフたちは、その後もコシヒカリの研究を続けます。

そして弱点である、稲穂の倒れやすさと、イモチ病への抵抗に対して、収穫前の稲の色によって、肥料を抑制する方法で克服できることを発見します。

農薬の使用を抑制するのです。
おかげで、農薬による味の劣化もない。

豪雪地帯だから水が良い。
日本海型気候だから夏の日照時間が長い。

なかでも魚沼は、盆地だから気温の日較差が大きい。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒で糖度が高く、デンプンをたくさん含む味の良い米ができる。

かつて飢饉に苦しんだ、新潟県・魚沼という特殊な土壌が、そのまま素晴らしい米の収穫に適したものとなる。


「魚沼産コシヒカリ」の誕生です。


つらく貧しい痩せた豪雪地帯で、何度も飢饉に遭いながら、それでも人と人とが互いに支え合い、助けあって生きてきた。

100年以上にもわたって、村との約束を守り、村の援助をしてきた人がいた。

そういう人の和が、もしかすると天の神を動かし、高橋浩之という天才技官を新潟に派遣してくれたのかもしれません。

そして、何代にもわたって、絶対にあきらめないという日本人の心が、天の時、人の和、地の利のもとに、最高のお米を生んだのかもしれません。


どんなに苦しくてもあきらめない。
どんなにつらくても、あきらめない。

日本人は、そうやって世界に誇れる日本を築いてきた。

なんだか、そんなことを感じさせてくれます。

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コメント

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承認待ちコメント
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越後人

コシヒカリ
管理人さんへ

お久しぶりです。
以前は勉強させて頂きありがとうございました。

最近、福井県の方々が方々で、「福井県がコシヒカリ発祥の地だ!」と、福井県の地検場で開発されたのだから福井県生まれの米だ!と、言いふらしていて困っています。福井県知事まで他県への講演でも発言しています。このままだとコシヒカリは福井県発祥の米にされてしまいます。
どうしたらいいでしょうか?

敬具

いろり

父が魚沼出身
後をついで今でもコシヒカリを作ってます。小さい時から食べてるので一つ一つの作物がとても苦労してできた歴史を教わって育ったので食べ物の好き嫌いや残す事は、絶対にしませんし、自分の子にも食には、厳しくしました。まさに食べる事は、生きる事。生きる事は、食べる事という生きていくうえで一番大切な事ですよね。いろんな人の人生の重さや尊厳を思いながら食するたびに感謝の気持ちを忘れては、いけませんね。人の豊かさとは、その国の主食を守り続け自然と協調していく事なのでしょうね。

越後人

教え
こんにちは

 素晴らしいお話をありがとうございました。

 新潟には庄屋さん出身で素晴らしい人が沢山いるなぁ、と思いました。
 ワイン葡萄の父・川上善兵衛、しいたけ(キノコ)人工栽培発明者・田中長嶺、サッポロビール・技術者で初めて国産ビールを作った・中川清兵衛などなど、越後人の粘り強さと、なんと言っても「儒教や仏教」の教えが根付いているなぁ、と思いました。
自分の近くにも元庄屋さんの家があるのですが、やはり昔は飢饉があると大きな釜で炊き出しをして、小作農の人達や近隣の人達に振る舞われたそうで、言わば「上に立つ人の義務」だったそうです。
吏官も然りです。
 このような良い習慣は、また取り戻したいものです。

 本当に良いお話を紹介してくれて、ありがとうございました。

かをる

魚沼の者です
農業試験場でのコシヒカリ誕生の話は聞いた事がありましたが、ここまで詳しい話ではなかったので、正直これほど深い話だったのかと驚きました。
魚沼産の名称が使えるのは旧北魚沼郡・南魚沼郡・中魚沼郡(今は合併して郡が消滅し市となっているところもありますが)と十日町市と小千谷市だったと記憶しております。
今は減反政策や後継者不足による田んぼの放棄も目立ち、魚沼産コシヒカリの生産量も減ってきてますが、四季変化する田んぼは富士山に負けないくらい魅力的な日本の原風景と思います。
残念ながら上の方がおっしゃるように、「袋だけ」魚沼産コシヒカリというケースも過去発覚していますので、皆さま方も購入される場合はご注意下さいませ。
昔と違い今はネット通販などを農家やJAが積極的に行っていますので、直接魚沼地域の販売店から購入される事をお勧めします。おにぎりにすると最高のお米です。
地元の事を取り上げていただき、有り難うございました。

-

No title
>魚沼産コシヒカリは米袋自体が取引されてるんですよ。 中身は近隣の「コシヒカリ」ですからDNA検査しても
引っかからない。だって「コシヒカリ」には違いないもん。

なるほど、そういうことですか。魚沼の人達はあまりいい気はしないでしょうね。

-

No title
>>2010/04/19(月) 22:40 | URL | 名無しさん
魚沼産コシヒカリは米袋自体が取引されてるんですよ。
中身は近隣の「コシヒカリ」ですからDNA検査しても
引っかからない。だって「コシヒカリ」には違いないもん。

たぬきち

きちん さんへ
>デビ夫人の北朝鮮探訪記 < の情報ありがとうございます。

日心会のMLに転載させていただきました。 出来る限りの多くの日本人に知らせたい一件です。

-

私の保守主義観 福田恆存
最初の自己認識は、言いかえれば自分を遮る障害物の発見は、まず現状不満派に生じたのである。革新の方が最初に仕来りや掟のうちに、そしてそれを守る人たちのうちに、自分の「敵」を発見した。

 先に自己を認識し「敵」を発見した方が、自分と対象との関係を、世界や歴史の中で自分の果す役割を、先んじて規定し、説明しなければならない。社会から閉めだされた自分を弁解し、真理は自分の側にあることを証明して見せなければならない。こうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の発生を見るのである。

(中略)

 進歩や改革にたいして洋の東西を問わず、保守派と革新派とが示す差異は、前者がただそれを「希望」しているだけなのに反して、後者はこれを「義務」と心得るということにある。

(中略)

 革新派はそれをつねに説明して見せなければならない。世界を空間的にのみならず、過去から未来にわたって整然と説明して見せなければならない。したがって、改革主義は合理主義の上に立たねばならないし、それに救いを求めなければならないのだ。

(中略)

 保守派が合理的でないのは当然なのだ。むしろそれは合理的であってはならぬ。保守派が進歩や改革を嫌うのは、あるいはほんの一部分の変更をさえ億劫に思うのは、その影響や結果に自信がもてないからだ。それに関するかぎり見す見す便利だと思っても、その一部を改めたため、他の部分に、あるいは全体の総計としてどういう不便を招くか見とおしがつかないからだ。保守派は見とおしをもってはならない。人類の目的や歴史の方向に見とおしのもてぬことが、ある種の人々を保守派にするのではなかったか。

 世界や歴史についてだけではない。保守的な生き方、考え方というのは、主体である自己についても、すべてが見いだされているという観念をしりぞけ、自分の知らぬ自分というものを尊重することなのだ。

 そういう本質論によって私は日本の保守党の無方策を弁護しようというのではない。むしろ逆なのである。保守的な態度というものはあっても、保守主義などというものはありえないことを言いたいのだ。保守派はその態度によって人を納得させるべきであって、イデオロギーによって承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである。

(中略)

 大儀名分は改革主義のものだ。もしそれが無ければ、保守派があるいは保守党が危殆に瀕するというのならば、それは彼等が大義名分によって隠さねばならぬ何かをもちはじめたということではないか。

 保守派は無智といわれようと、頑迷といわれようと、まず素直で正直であればよい。知識階級の人気をとろうなどという知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆずればよいではないか。
(「読書人」昭和三十四年六月十九日)

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国会改正法案と全権委任法
■国会改正法案の危険性
①国会で答弁する政府特別補佐人から内閣法制局長官を除く。→「余計な解釈するやつは国会出てくんな」

②副大臣・政務官の定数を増やす。→「脱官僚にみせかけ内閣の方針に従う人間を増やす」

③政府参考人制度の廃止。→「余計な説明するやつは国会出てくんな」

④行政機関職員や学識経験者のからの意見聴取会、開催。→「民主 支持母体の意見重視」(日教組、自治労、民団、解同 等)

つまり、法の番人を締め出し、違憲を合憲としてやりたい放題できるようにする計画。

①内閣法制局長官とは:その場で閣僚からなされる法令等についての質問・照会に応える必要性から、認証官以外の者でありながら常時閣議への陪席が許される唯一の職


外国人参政権が違憲であることを内閣法制局長官に国会答弁されたら困る。

内閣法制局長官の国会答弁禁止を発表。

最後まで小沢に屈しなかった宮崎氏を事実上更迭。

国会法改正に反対する生方氏を副官次長の解任騒動。
http://orange-daidai-color.cocolog-nifty.com/orangeblog/2010/03/post-ebff.html

成立すれば、あたかもベルトコンベアのラインのような、闇法案「法制化」量産の土台が出来上がってしまう。

【全権委任法目前】

■小沢一郎の乱心-全権委任法か国民主権のデモクラシーか 2009/12/17 
 小沢のやっていることは人民あるいは労働者の名において人民と労働者を弾圧した東西の共産党と変わらなく、天皇陛下の御意思に続いて全国民の要望を勝手に忖度して、それを理由に自己の背信行為を正当化する小沢発言は、以下の尾崎秀実の評論と同類である。

 「我々は静かに『聖戦』の意味について三思する必要がある。今日一部に於て、もしも日本がその大陸に対する要求を具体的に明瞭に形の上に現わすのでなければ尊い血を流した勇士たちは瞑することが出来ない、又艱難辛苦しつつある出征兵士たちがおさまらないであろうとの説をなすものがある。絶対に正しからざる説である。恐らくは心事高潔ならざる輩が自己の心事をもって推しはかったものであるに違いない。

 一身を抛って国家の犠牲となった人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いないのである―。」(中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」尾崎秀実著作集第2巻)

 いったい小沢一郎の中で何が起きているのか、小沢に回りに何が蠢いているのか不明だが、小沢一郎が極めて傲慢で危険で凶悪な存在になっていることに間違いない。

 小沢の発想はまさに民主党への「全権委任法」か、国民主権のデモクラシーである。国民に主権(無制限の絶対権力)があるなら、国民の代表であり国民の一員である民主党の支配者小沢一郎は、憲法に拘束されない無制限の絶対権力者になってしまう。

 だから人民主権を標榜し人民の代表もしくは前衛を詐称した古今東西の共産党は、無制限の一党独裁体制を敷き、国民の自由と権利と生命を蹂躙したのである。

 まさに忘れられた賢哲ベルジャーエフの以下の言葉は金言であり、自由のない「民主党」を選んでしまった国民主権のデモクラシーの危険性を日本人に警告している。

 「国民主権のなかでは、国民は滅亡する。国民主権は、人間主権である。人間主権はその限度を知らない。そして人間の自由と権利を侵犯する。」
http://oncon.seesaa.net/article/135909022.html

-

No title
魚沼産コシヒカリよく見かけるだけに嘘臭い。あんな狭い地域限定の米なのに流通量多すぎやしませんか?ぜったい偽物が混ざっていると思うのですが。それとも魚沼郡で獲れた米という意味ではなく、魚沼のコシヒカリの種籾からそだてたものですよ~ってことなのか?
教えて詳しい人。

愛信

北海道・帯広市長選 民主候補当選 石川議員、辞職論歯止め
北海道・帯広市長選 民主候補当選 石川議員、辞職論歯止め

http://mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20100419ddr041010003000c.html

民主党の一連の「政治とカネ」問題が全国の地方選で逆風となる
中、政治資金規正法違反で起訴され、民主党を離党した石川知裕
衆院議員(36)=北海道11区=が支援する民主推薦の米沢則寿
(のりひさ)氏(54)が18日投開票された北海道帯広市長選で
初当選した。

陸山会政治資金規正法違反事件で起訴された国会議員が推奨
する市長を選んだ帯広市民は日本の国柄を汚した、日本国民の
恥さらしとして未来永劫記憶されるだろう。

明日20日の小沢氏不起訴の当否判断-陸山会政治資金規正法違反
事件の検察審議決に注目しよう。
【経済・政治の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj.cgi
【政治・経済タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

きちん

北に拉致されて良かったと語る寺越さんの母!?
驚きです!!デビ夫人の北朝鮮探訪記
これって北朝鮮が今まで主張して来たことと同じですよね。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10511006071.html

寺越さんのお母さんが息子が拉致されて北の高官になったことを
誇りにしているとか?驚きの記述で埋められています。


以下がデビ夫人と度を伴にした●島さんです。
彼がデビ夫人の北朝鮮探訪記を紹介しています。
http://ameblo.jp/kk5160/entry-10511759511.html

工作コメントばかり、、

北に行ってみて現状が分かったそうですから、彼の正体見たりって感じですね。

北に同調しる人物でないとデビ夫人一行には合流できないはずです。

匿名希望

国会法改正案
さっきyaegaki-hime様fc2ブログ【まさか、右翼と呼ばないで!】にて、〈国会法改正案 緊急拡散〉がUPされました。どうしましょう。小沢独裁体勢突入だなんて。
外国人地方参政権反対の国民大会にも行きました。昨日は、子ども手当再審議要求デモにも行ったし、4/10には日比谷野音にも。署名もしてもらってます。でも、何か追い付かないです。国会のまわりをグルグル回っているだけみたいで。
私は日本が大好きです。海外指向で海外に出た友人も、結局「日本ってすごくいいよ」といいます。ぜいたくしないで、つましく暮らせば、気候は温暖だし、人々の気性は荒くなくて清潔だし、本当に住みやすい。さっき警察のミニパトが施錠注意アナウンスで回ってました。初めてです。
土屋さんのブログをのぞいたり行ったり来たり。本当に本当に本当に何とかしなくちゃ、と思うのです。
1万人集会のとき、国会法改正の話、出せなかったんでしょうか??もう、小沢なんて逮捕ですよ。
ども、すみません。北海道米よろしく。道産子の夫がいます。記事と関係なくて申し訳ありません。

一粒
私の祖父は食後は必ず、食べた食器にお茶を入れて飲みました。
御百姓さんへの感謝を米一粒も残さないと言う意味だそうです。従い我が家では食事後の御茶を飲むのに御茶用の茶碗は無い。
御客さん用の御茶は立派な茶ずつと御茶碗を使いますが以後も別にして居ます。

猫のひげ

米品種の改良
良い話をありがとうございます。

「先人への敬意をもって、努力を続ける」という日本人らしい能力を発揮して作り上げる技術の蓄積、美しいです。努力を続けることができるのも才能の内です。
新しく開発する技術のなかには、そこに込められた精神が重要な役割を占めていると感じます。

藤井さんの「鳩撃ち猟プロジェクト」、早速鳩への告発状を事務所宛に送りました。

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No title
中学になって、初めて炊き立てのコシヒカリを見ました。

母が何も言わなかったので、最初はコシヒカリだと知らなかったのですが、、、いつものお米と輝きが違っていました。なんだ今日のご飯は!?と、驚き、食べてまたびっくり、、、。感動しました。


コシヒカリは外国でも、おいしいと評判です。日本にはこんな凄い食品があるのだと、自慢でした。
すしが苦手な人でも、このコシヒカリご飯は「おいしい」という人が多いのです。
北欧の裕福層の中には、コシヒカリを知って速、炊飯器を買い、毎年日本から輸入している人がいました。

親日でも反日でもなんでもない人でしたが、おいしいものを作ってくれる国を好きにはなっても、嫌いになる訳が無い。
日本のもの、新幹線、車、お米でもアニメでも、日本のものが好き、日本ファンが増える事は日本にとってすごく良いことだと思います。

日本酒もずいぶん世界に浸透しています。素晴らしいことですね。

なおみ

No title
素晴らしいお話ありがとうございます。
「魚沼産コシヒカリ」の誕生に100年の時を超えたこのような物語があったとは。感動で涙が出てきます。
日本にはこのような話がごろごろとありますね。
それをとても不思議に思いますが、日本にはそういったものを生み出す土壌があるのですね。
わたし達が豊かな暮らしができるのもみんな先人達のおかげなのだという事をしみじみと感じます。
わたし達は、豊かなものを生み出す日本の土壌を荒れさせる事のないように、耕し、手入れをしていきたいです。

共通一次世代

No title
北海道の「きらら397」が出てきた時、北海道でもこんなおいしいお米が取れるんだと感心し、しばらく続けて購入していました。
その時の自分の「きらら購入意欲」というのは、「きっとすごい努力があったんだろうなぁ・・」という思いから、何か「きらら」を応援したいという気持ちも多分にあったように思います。

山形県も、昭和42年に面積当たりの生産量が日本一になって以降、全国トップの米の生産地として発展してきたそうですが、山形は肥料の開発に加え、それまでは、田植えをする前にのみ田んぼに入れていた肥料を、「田植えの前に、だいたい3分の2くらい、そして残りの3分の1は、後でイネが大きくなってから田んぼに入れる」という方法に改良した結果が生産量アップにつながったそうです。

日本はやっぱり技術の国だと改めて思います。本当に誇りに思います。

もうすぐ民主党による「事業仕分け祭り第2弾」が「開催」されます。
今にあの会場には屋台でも並ぶんじゃないですか?
DJ放送でも始まるんじゃないですか?
桂きん枝が落語でもやるんじゃないですか?
庄野真代が「飛んでイスタンブール」♪って歌うんじゃないですか?
岡部まりが「秘書」として司会進行するんじゃないですか?

参議院選挙に出る「民主党芸能コース」候補の面々は、「パフォーマンス強化議員」にでもなるんでしょうか?

事業仕分け祭りで仕分け対象になる法人、事業は「科学技術」を思いっきり軽視していますね。

馬鹿げた芸能人を国会議員にして、国を支える科学技術を削りますか。そうですか。

民主党を絶対に許せません!!






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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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