滅んでも勝つ・・・山川大蔵



人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

山川大蔵
山川大蔵


以前、このブログで、大山巌の妻、捨松のことを書かせていただきました。

≪明治の貴婦人、大山捨松≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-615.html

その捨松の兄弟に、山川健次郎がいます。東大総長を三度勤めた方です。

≪東大総長を三度勤めた男・・・山川健次郎≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-669.html

二人とも会津の方です。明治時代に活躍しています。
会津は、明治新政府の敵方です。
にもかかわらず、敵方の明治政府からさえ、一目も二目も置かれた。
まったくもって、会津の山川家は、すごい人材を輩出したものです。

この兄弟には、他にも戊辰戦争来の立役者で後に貴族院議員となる山川大蔵、女子教育に携わって高等官四等を受け、従五位にまで叙せられた山川双葉など、偉大な人材を輩出しています。

そこで今日は、長男の山川大蔵(やまかわおおくら)についてお話してみようと思います。

まさに波乱万丈、そして堂々たる人生を生きた人です。


山川大蔵の父は、会津藩国家老、山川重固です。母は会津藩家臣、西郷近登之の娘えん。

弘化二(1845)年、山川大蔵は、会津若松城下本二之丁で生まれます。

初名が大蔵で、維新後は浩(ひろし)と名をあらためています。

山川家というのは、会津藩公の遠祖である保科氏が、高遠の大名だった頃からの家臣で、「高遠以来」の家柄として、藩の家老職を勤める由緒ある家柄です。

父の重固は、家督を継ぐ前に亡くなってしまったことから、大蔵は祖父のもとで育てられます。

文久二(1862)年、会津藩は京都守護職に任命されます。
大蔵も藩公松平容保に従って、物頭として京に入る。


この頃のエピドードがあります。

ある日大蔵が、ひとりで嵐山に花見行ったそうです。
花の下で酒を呑み、ほろ酔い気分で帰途につくと、前を大柄な若侍が歩いている。

見ると、腰に異様に長い刀を差し、頭は総髪でボサボサです。
どうやら土佐の侍です。

どうせ流行に乗って長刀を差しているだけのヘナチョコ武士だろうくらいに思いながら、やがて追いついたふたりは道連れになります。

大蔵は、「長剣を帯びて尊皇攘夷を唱うる者は天下の大丈夫といいますな。どうでしょう、ここでひとつ、貴殿の長刀を抜いてみせてくださいませんか」と言った。

半ばからかいの気持ちです。

「どうせそんな長剣、まともに抜けないだろ?」というわけです。

ところが、この土佐の若侍、気を悪くする風もなく、無邪気に「いいですよ」と明るく言ったかと思うと、気合一閃、電光石火の早技でその長刀を見事に抜き放ちます。

見事な腕前です。

あまりに見事なので、大蔵は思わず「もう一度」と頼んでしまいます。

土佐侍は、再びその見事な腕前を披露してくれた。

ビビったのかもしれません。
大蔵は、結局、名前も訊けずに別れてしまった。

後年、大蔵自身が土佐の人間に、あれは誰だったのだろうかと尋ねたところ、すでにその若侍は亡くなっていたとか。

洩れ伝わるところによると、どうやらその土佐の若侍、坂本竜馬だったようです。


さて慶応二(1866)年になると、幕府は樺太境界協議のために外国奉行の小出大和守、目付石川利政をロシアに派遣使として送ることになります。

会津藩からも随員を、ということで、若い大蔵が、一行に同伴することになった。

もっとも、このときまだ十代だった大蔵は、陪臣でもあり、要向きはもっぱら雑用ばかりです。掃除をしろ、茶を持て、髪を結え、などと、雑役ばかりをさせられていた。

そのためか、欧州に到着した大蔵には、ガチガチの身分制に縛られた江戸日本と、欧州の様子のあまりの違いに大きな衝撃を受けます。

差別意識の強い幕臣の中にあって、彼にはかえって欧州がとても開放的にみえたのです。

欧州各国と比べ、なんと我が国の兵制も民治も遅れていることか。
日本は近代化を進めなければならぬ。

そう、大蔵は痛感します。


帰国後すぐ、鳥羽伏見の戦いが始まります。戊辰戦争のはじまりです。
時は慶応四(1868)年。

大蔵は、林権助隊などの会津藩の敗兵をまとめて、大阪に撤退するという難しい役をこなします。

日ごろ親しくしてくれていた先輩たちが、傷つき、疲れ果て、血と汗にまみれている。

欧州の繁栄を目の当たりにしたばかりの大蔵に、その姿はいかように写ったことでしょう。

そして彼らをまとめて京から大阪、大阪から江戸へと護送する大蔵の心に、こんなことが許されるのか、という怒りと悲しみも沸々と湧いてきます。

大蔵の心の中には、近代化への強い欲求と、幕府が倒壊しても、何があっても西軍に徹底抗戦するという決意がわいてくる。

西軍に徹底抗戦するなら、会津の兵制を、旧制の武家集団から、いっきに洋式化するしかない。
実際に欧露の軍隊を眼の前にみている大蔵に、決心が生まれます。
そんな大蔵に、会津の若手侍たちが、集まってきます。

大蔵は藩公に建言し、幕府の軍事教官であったフランス士官のシャノアンを会津に招へい、洋式練兵の伝習をもたらします。

帰藩した大蔵は、会津藩若年寄に任ぜられます。
このとき大蔵、まだ23歳です。

洋式と武家式では、走り方からして違うのです。

武士は腰の刀が抜けないように、急ぐ時でも腰を落として、すり足で小股で走る。
洋式軍隊では、走るときはもちろんかかとを上まであげ、大股で走ります。

一部の武士からは、こんなものできるか!と反感を得たりもしますが、その都度、大蔵はなぜそうするのか、合理的に証明をしてみせ、みなを納得させます。

よく会津戦争や白虎隊を扱ったドラマなどで、なみいる中高年の会津武士たちを前に、若い役席者らしき者が、声を大にして、またあちこち必死に走り回って、平和ボケした藩士たちに洋式訓練の優位性を実演してみせているシーンがあったりします。

その若い役席者が、大蔵です。

この時代の環境は複雑です。

厳然とした身分制は、様式化され、裃(かみしも)をつけたときは上司です。
しかし裃がないときは、同じ武士どうし、同僚であったり道場の先輩、後輩であったりする。

そんな中で、では、はじめて見る洋装の軍服を着た大蔵は、どういう立場の人なのか。

そこそこの規模の会社で、副社長の若い息子さんが突然、ロックのミュージシャンのような格好をして、ロックバンドの訓練を、なみいる勲功ある部課長以下全社員にエレキギターの演奏を方法を教える係となったのです。

そう考えたら、そのときの大蔵の苦心がすこしは理解できるかもしれません。


さらに、実際に外国を見聞し、彼我の国力や軍制の違いを目の当たりにした大蔵の目には、いちにちも早く、日本の軍制を洋式化し、幕藩体制ではなく、天皇のもとに国内を統一して国力と兵力を高めて夷敵を打ち払わなければならないという問題意識があります。

これに対し、西国諸藩は、まずは徳川政権を倒した後に、天皇のもとに国家を統一して夷敵を打ち払うという。

そして多くの人々は、単に外国人を打ち払う攘夷だと思っている。
だからなかには攘夷なのに、なんで外人の服を着なきゃなんないんだと、そこから問題になる。

西軍も東軍も、「攘夷」ということでは一致している。

しかし欧米列強の国力を考えれば、「攘夷」のためには、まずは日本の国力(経済力、軍事力)を挙国一致体制で構築しなければならない。

そのためには、国内で争っているヒマなどなく、将軍みずからが大政を奉還して、天皇のもとに挙国一致体制を築こうではないかという説、

挙国一致のためには、徳川幕藩体制では、あまりにも体制が様式化され形骸化している。
旧来の陋習や旧弊、因習があまりにも深くしみ込んだ日本で、本当の挙国体制を築くためには、国内の半分以上を勢力下におさめた徳川家を、まず武力で倒し、天下に響く武を打ち立ててこそ、挙国体制が築かれるという説。

説はいろいろあるのです。

この時代においても、比較的言論の自由が保障された日本では、人が百人寄れば、百通りの言論が出る。

しかし、現実は動いています。
戊辰戦争がはじまり、天皇の詔勅を盾に、薩長連合が諸藩を武力制圧にかかっている。

しかしそのことは、欧米列強との攘夷を前にした、国内の内紛であり、国力の消耗です。

大蔵は、必死に公家や西国諸藩に働きかけ、ともに新しい国づくりをしようではないかと呼びかける。

しかし、振り上げた拳の落とし所を探す新政府はこれを認めない。
ならば「武門の習い」として、一戦を交える他ない。

こうして会津藩は、「望まない」戦いへと突入していきます。

そしていよいよ西軍が江戸を北上し、会津藩に迫った。

大蔵は、砲兵隊長として日光口の国境警備に任ぜられます。

そこに幕府伝習隊の大部隊を率いた大鳥圭介がやってきて、合流する。
両者は連合して、日光口方面国境警備軍を編制します。
大蔵は、その副総督に就任した。

≪参考:会津藩の二人の女性・・・中野竹子と瓜生岩子≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-775.html

大蔵は、大鳥圭介と共に日光口を転戦します。
攻め手の大将は、板垣退助と谷干城です。

その精鋭部隊を前に、大蔵は奮迅の戦いをし、ついに西軍のこの方面からの会津領突入を阻止します。

当時のエピソードがあります。

谷干城が会津兵のあまり強さに驚き、

「ここの会津兵は妙に強い。誰が指揮を執っているのだ?」と配下の者に訊ねた。

谷は、このとき聞いた山川大蔵の名を記憶にとどめます。

ずっと覚えています。
そして谷は、後年、陸軍に大蔵を招待します。
二人は生涯の友となっている。

そういうものなのだと思います。
アメリカインデアンは、白人が来る前、北米大陸におよそ800万人いたと言われています。
いまは、35万人です。
その35万人も、ほぼ全員が白人との混血です。
全部殺されたのです。

そしてインデアンたちの文化や風習、伝統、歴史、言語がいったいどのようなものであったのか。
いまではもはや歴史の闇の中です。

豊か(だったかもしれない)インデアン文明は、完膚なまで滅んでしまった。
人類の記憶から、完全に忘れ去られる存在となったかもしれない。

しかし、私たちの誰もが、あるいは世界中の人々が「インデアン」という名は記憶にとどめています。

なぜか。

アパッチ族などが、勇敢に戦ったからです。
勇敢に最後まで戦うことで、敵方(白人方)の記憶に残ったのです。

大東亜戦争を、なぜあそこまでして日本が戦ったのか。

開戦前、日本には、戦わず降伏するという道もありました。
当時、世界最後の非植民地の有色人種国家だったのが日本です。

その日本が、無抵抗で白人の軍門に下っていたらどうなっていたか。

はるか太古の昔から脈々と受け継がれてきた日本文明は、完膚なまでに否定され、その痕跡すらとどめず、アメリカインデアンと同じなら、21世紀を生きる日本人の人口はわずか350万人程度に減少し、その全員が白人との混血となり、まさに少数民族として、貧困のどん底に落ちていたかもしれない。

すくなくともはっきりといえるのは、黒人、黄色人が住む地域に、独立国などいまだにひとつもなく、われわれ日本人も奴隷としてしか生きる道はない状態に陥っていたであろうことは、現実の問題として十分に想像できることです。

明治新政府において、旧会津藩の武士たちの多くが、明治のリーダーとしてあちこちで大活躍しています。
現代でもなお、会津ッポといえば、それなりに腹の据わった男女として認識される。

それは、とりもなおさず、会津藩が戊辰戦争で、最後の最後まで勇敢に戦ったことによってもたらされたのだということができるのではないでしょうか。


話が脱線しました。

さて、日光口戦線が膠着したため、大鳥圭介とその麾下の伝習大隊は若松を経て母成口へと転陣します。

その母成口で、大鳥圭介は、西軍の急襲を受けて潰走してしまう。

この潰走で、西軍は、鶴ヶ城をめがけていっきになだれ込んできます。

会津藩兵は、文字通り門前でかろうじて防ぐけれど、押され、ついに鶴ヶ城に敵の砲弾が飛んでくるようになる。

日光口にいた大蔵の元に、8月24日、帰城命令が届きます。

鶴ヶ城を、そして殿をお守りしなければならぬ。

大蔵は、即座に全軍、撤退を開始します。

翌日、田島に入った大蔵は、ここに南会津方面守備隊として軍事奉行小山田伝四郎の隊を残し、残りの部隊を率いて鶴ヶ城に向かいます。
怒涛の行軍です。


この帰城途上で、大蔵らの一隊は、白虎隊数名と合流しています。

この白虎隊士は、荘田安鉄をはじめとした数人で、飯盛山で自刃した白虎士中二番隊の一員です。

荘田らは、二番隊の一員として戸ノ口原の戦いで敗走後、強清水のあたりで、夜間敵の攻撃に遭い、篠田儀三郎らの本隊とはぐれてしまったのです。

このあと篠田らの本体は、飯盛山で自刃した。

はぐれた荘田ら数名は、相談の結果「山川隊に合流しよう」ということになり、二日二晩飲まず食わずで歩き続けて、ようやく山川隊と出会ったのです。

大蔵隊の隊員たちも、よくぞ合流できた、よくぞ生き残ったと、彼らを暖かく迎え入れます。

ところが引見した大蔵は、
「死すべき時に死ねずにたずねてくるとは情けない連中だ。
誰か、粥でも与えてやれ」と、厳しく言い放っています。

ようやく生きて合流できて、安心したのに、この言葉は以外です。
荘田らは驚き、歯を食いしばって悔しがる。

ついに「山川様の面前で割腹しよう」とまで思いつめてしまう。

すると係の者が「今夜、敵に夜襲をかける」と情報を流してきます。

荘田らは、「ならば、夜襲の最先鋒にて打って出て、山川様の前で華々しく討死しよう」と相談し、夜襲への参加を申し入れます。

すると、今度は、
「命が惜しくて逃げてきた連中になにができるのか。
本気で死ぬ気があるなら、他に死所を与えてやるから、引っ込んどれっ!」とやられた。

これは悔しい。年少とはいえ、自分たちも出陣しているのです。
荘田らは歯がみして悔しがった。
涙を流して悔しがった。

「何故、我らは戸ノ口原で死ななかったのか!」

このとき、彼らは噛み締めた唇が破れて血が滴ったといいますから、相当の心情だったのだろうと思います。
彼らの受けた心の痛手は、どんな重傷よりも痛かったかもしれない。

そしてついには、

「かくなるうえは、山川様も驚く戦功を立て、臆病者の汚名を晴らさぬうちは、死んでも死にきれない!」と闘志が、むらむらとわき起こります。

もちろんこれは、大蔵の「気付け薬」です。

白虎隊の少年たちは、山川隊に合流できた安堵感で、緊張感の糸が切れている。
不安と空腹の中で、呑まず食わずの二日間のあと、ようやく大人たちと合流できたのです。無理もない。

しかし、ここは戦場です。

大蔵は、少年たちにもう一度緊張感を持たせ、戦意を復活させるため、敢えて厳しいことを言った。

「今夜は夜襲」という情報提供も、大蔵の差し図です。

ひどいことをすると思うかもしれないけれど、戦場での緊張の喪失は、即座に死を意味します。本人の死だけではありません。隊全体をも危険にさらす。

ペリュリュー島の中川大佐もそうだけれど、いざというとき、こういう厳しさを出せるかどうかも、将としての器なのだろうと思います。

荘田は、後年、当時のことを振り返って、次のように手記を残しています。

~~~~~~~~~~
日を経るに従い、隊長の名将たりしことを、つくづく感ずるに至れり。

冷酷なる取扱も、実は我等を救はんが為にして、夜襲といひしも、元気をつけるための気付薬なりし
~~~~~~~~~~

謙虚にそう悟れる荘田もまた、優秀で素晴らしい日本男児と思います。


さて、大蔵ら一行が鶴ヶ城に近づくと、すでに城は西軍が重囲しています。
敵が城を幾重にも囲んでいるのです。
城内に入れるような状況ではありません。

しかし、殿のもとに合流するために城に入らねばなりません。

大蔵は一計を案じます。

村の青年団に、小松地方の伝統芸能である彼岸獅子を頼みます。
そして青年団の獅子舞を先頭に立て、にぎやかに笛や太鼓、お囃子を奏でながら、西軍が呆気にとられているなかを堂々と行進し、一兵も損じる事なく入城を果たしてしまいます。

これが有名な「彼岸獅子入城」です。

この作戦がうまくいった背景には、西軍が、各藩寄せ集め連合軍で、装備や軍装がバラバラだったことや、互いの認知が低かったことなどがあげられます。

しかし、そうした一瞬の盲点を突き、機知を働かせて敵中を無血で入場してしまうなど、よほどの胆力がなければできることではない。

西軍は、大蔵ら一行が城門をくぐるときまで、あっけにとられて様子をみていたといいますから、情況は押して知るべしです。

この「彼岸獅子入城」は、一説には、山川大蔵が自らの麾下の兵に獅子踊りをさせたという説もあるようですが、中には少年も混じっていたといいますから、やはり村の青年団に依頼したというのが、事実ではないかと思います。

敵の真っ只中で、お囃子や獅子踊りをした町方の青年団員たちの度胸も、まさに見上げたものです。
これも、大蔵へのよほどの信頼がなければできるものではありません。


大蔵の入城により、籠城中の将士達はおおいに士気を盛り返します。
藩主容保も、このとき涙を流して喜んだといいます。

また大蔵の機知に、容保以下、城内の全員が称賛を惜しまなかった。


入城後、容保は、大蔵を防衛総督に任じます。
彼は本丸にあって軍勢を総括した。

そして戦うこと1ヶ月。

ひとくちで1ヶ月の籠城戦といいますが、大砲がある時代なのです。
どれほどまでにすさまじい戦いが行われたか、想像するに余りあります。

そして大蔵は、この籠城戦のさ中に、妻のトセを爆死で失っています。


長い長い籠城戦でしたが、ついに鶴ヶ城は落城します。


藩主の松平容保、家老の山川大蔵らは、西軍に拿捕され、猪苗代に謹慎させられる。

しばらくすると、処分のため、松平容保公以下、幽閉されていた会津の重臣たちに、東京出頭命令が届きます。

東京に護送された一行は、池田家の屋敷その他に、分離して幽閉されます。

そして、徐々に藩士たちの謹慎先も決まる。

大蔵は、少し状況が落ち着いてくるのをまって、積極的に「お家再興」へ向けた活動を開始します。

大蔵は、あきらめてないんですね。

いまなら、会社が倒産し、無一文の求職者になった状態で、ふたたび事業再開に向けて活動を開始するようなものです。
しかも当時は、へたを打ったら殺されるという時代です。

新政府は、日増しに増幅する会津藩への同情論を牽制するために(そりゃそうでしょう)、会津藩の戦争責任を追及しようとします。

もっとも新政府側にも死力を尽くして戦った会津藩への同情心が強くあり、形さえ整えばそれでいいと思っていたようです。

ところがこれに藩公の容保が、頑強に抵抗します。
「首謀者は余である、余を処罰せよ」と言い張るのです。

実はこれは新政府には、非常に困るのです。

伝統と格式ある大名格の人を処分するとなると、ちゃんとした理屈が必要になります。
しかし、そもそもがデッチアゲの「朝敵」なのです。

挙国一致して内戦によって国力を消耗することなく、夷敵に備えようではないかという論は、容保の論です。

そのために、容保以下の会津藩士は、必死の調整をしている。

それを内戦で叩いたのです。
どうみても、理屈でいえば新政府軍側に非がある。

しかも、合理的な処分ができるかどうかは、列強が軍艦を出してみているのです。
新政府と名乗っている以上、いい加減な土人のような強引な処罰はできない。
さりとて論及すれば、新政府側の不備がボロボロと出てしまう。

やむなく新政府は明治天皇に奉じて「勅旨」出してもらいます。

「容保の死一等を宥して首謀の臣を誅し、以て非常の寛典に処せん」

要するに、新政府誕生記念なので、理屈抜きで赦しますとやった。

天皇の詔勅が出た以上、もはや容保公も、それ以上言い張ることはできません。

ただ、戦乱を招いたことは事実です。

そこで藩の責任を一心に背負った萱野権兵衛が「従容自若顔色豪も変らず」全責任を負って、死出の旅路についた。

この萱野権兵衛は、ねずブロで、会津藩娘子隊の中野竹子のことを書いた記事にもちょっと登場しています。
この権兵衛さんの生き方や、そのまっすぐさ、暖かさは、たいへんな勉強になります。こんど詳しく書きます。


明治二(1869)年六月三日、容保公に長男が生まれます。
名を、慶三郎と名付けられます。

どん底状態にあった会津人士たちに、このことがどれだけうれしいニュースとなったことか。

さらにこの年の九月、太政官から、家名再興許可令が発せられます。
ついに会津松平家は復活したのです。

十月になると、大蔵は梶原平馬とともに会津藩総代となり、生まれたばかりの慶三郎をもって松平家の家名を立てられるよう、正式に願い出ます。

時を同じくして、新政府から「猪苗代または陸奥の北部にて3万石を賜る」旨の通知が出る。
いよいよお家再興です。

大蔵らはそのどちらかを、新たな藩の領地として選ばなければならない。

この場合、心情的には文句なしに猪苗代です。

なぜなら猪苗代は会津藩の旧領だし、祖先の墳墓の地に近い。
藩士たちの引越の費用も近い分だけ軽く済みます。

ところが大蔵ら在京の首脳部が決定したのは、最北の地である陸奥北部です。

なぜでしょうか。


じつはこのことについて、後年、義和団事件でコロネル・シバと呼ばれた柴五郎が、「ある明治人の記録」の中で、次のように記しています。

~~~~~~~~~~~
会津落城後、経済、人心ともに荒廃し、
世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり
権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし
~~~~~~~~~~~

そもそも江戸期の大名は、借金もぐれです。
会津も同じです。
そこへ大規模な戦闘が起こったのです。
藩費は、完全に火の車になっている。

士分の者以外から徴兵して編成した敢死隊への禄米だけでも、二万数千石が未払いです。
戦時中の年貢の前取り分や装備を整えるための借用金、徴用兵への未払い報酬金、亡くなった藩士への見舞金など、全部合わせたら、それこそ天文学的な数字になる。

さらに悪いことに、火事場泥棒が出ています。
戦に乗じて、盗っ人や強姦をする悪い奴らです。
体制が崩壊するというのは、一部にはこういう悪人も招く。
敵兵によって強姦被害に遭った女性もいます。

さらに江戸から明治への混乱期は、全国的に一揆や略奪などが頻発した時代でもあります。

藩の経営が破たんし、藩内の風紀も乱れた状況の中で、戦争によって疲弊した会津藩に、これを正常化できる自身はまったくなかった。


明治二(1869)年十一月、会津松平家は松平慶三郎をもって家名を立てることを許され、陸奥三郡に3万石、および北海道四郡の支配を命ぜられます。

「よって藩名を申し出よ」

ということで、大蔵らはこれに「斗南」という藩名をつけて届け出た。

「斗南」というのは、「北斗以南皆帝州」という中国の詩文から採ったものです。

私たちは北を守ります。私たちより南は、みな帝州です。私たちはは朝敵ではなく、同じ帝州の民なのです、といった意味です。
藩名で、恭順の意を表しています。

明治三(1870)年、大蔵は斗南藩の大参事(家老職)になる。
けれど、会津藩二十三万石の藩士が、わずか三万石、実収入は一万石にも満たない北限の地に閉じ込められたのです。

大蔵自身も妹咲子(後の大山捨松)を函館に口減らし同然に里子に出すなど、貧窮のどん底で苦労を重ねます。

結果として、藩の経営がうまくいかないまま、明治四(1871)年には、「廃藩置県」によって斗南藩は消滅します。

弘前藩と合県して青森県となったのです。


山川大蔵は、斗南に来てから名を「浩(ひろし)」と改め、しばらくは青森県庁に出仕しますが、その後、上京します。

母や妹たちと共に浅草の片隅に住み、絵に描いたような貧しい長屋暮らしをする。

狭い家ですが、居候もいました。
若き日の柴五郎、のちのコロネル・シバです。

コロネル・シバについては↓
≪義和団事件をふり返る≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-640.html

この頃の大蔵は、生活苦から、ときに居候の柴五郎からも借金しなければならないほど家計は苦しかったそうです。

そんな山川大蔵を、必死で探しまわっていた人物がいました。

かつての戊辰の敵将、谷干城です。

谷は土佐の人です。
武智半平太と親交を結び、後藤正二郎や坂本竜馬らと攘夷のための運動をした人物でもある。

この頃の谷は、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として、明治新政府の国を挙げた陸軍構築のため、人材を求めています。

谷は、会津戦争のおり、日光口で散々に自分たちを苦しめた「山川大蔵」の名を覚えていました。
大蔵を「有為の人材」として陸軍に推挙してくれたのです。


谷の推挙によって陸軍に入った大蔵は、陸軍裁判所勤務を経て少佐となり、熊本鎮守府に転じます。

佐賀の乱に出兵して負傷し、しばらく療養するけれど、西南戦争では中佐として別働第二旅団の参謀として出動し、熊本城に籠城する谷将軍救出の一番乗りをやってのけます。

明治13年に大佐に昇任した大蔵は、陸軍省の人事課長となり、さらに明治18年には文部大臣森有礼のたっての要望により、軍籍のまま東京高等師範学校長の任に就いた。

やがて陸軍少将になった大蔵は、貴族院議員になります。

これには山県有朋が、
「何故会津人を将軍にするのか!」と激怒したため、わざわざ明治大帝が勅撰にしています。これにはさしもの山縣も沈黙した。

貴族院議員となった大蔵は、筋の通らない政策には敢然と反対を表明します。
その潔さと正々堂々とした議論は、世人から「貴族院の3将軍」の一人と呼ばれ、政府高官たちを大いに畏れさせます。


この頃、東京牛込若松町三番地にあった山川邸は、馬小屋も備えた、当時としてもかなりの広さを持った屋敷だったそうです。

その屋敷には、年中誰かが来ていたそうです。
大蔵の人徳と、会津人の中心という彼の立場からすれば、当然といえば当然です。

そんな来訪者の中の一人に、藤田五郎の名があります。

藤田五郎、もとの名を斉藤一といいます。新選組三番隊組長だったあの斉藤一です。

斉藤一は、戊辰戦争では山口二郎の名で勇名をはせ、維新後は改名して藤田五郎と名乗っています。

藤田は、土方歳三が会津を去った後も、残存の新選組を率いて会津で戦い続けたのです。そしてついに会津藩と命運を共にした。さらにその後も斗南から西南戦争と、ずっと大蔵と共にあった。

たぶん斉藤一は、山川大蔵という男に惚れ込んだのだろうと思います。

山川邸に出没していた頃は、警視庁をすでに退職し、大蔵が校長をしていた高等師範学校の事務員をしていた頃です。

藤田は、休みの日など、しじゅう山川邸に現われ、酒を飲んでは気焔をあげています。

「刀を抜いて戦う場合は、剣術の場合のように構えるようじゃだめだ。大上段にふりかざして進めば、敵はもう斃れているんだ」

「阿弥陀寺の会津戊辰戦死者之墓の傍らに、俺は骨を埋めるのだ」

などと言っていたといいます。

藤田にとって、大蔵の屋敷は、いちばん気の落ち着ける場所であのでしょう。
現在、藤田五郎の霊は、彼の希望通り、七日町の阿弥陀寺にあります。

大蔵の家に寄宿していた柴五郎も、義和団事件で柴とともに戦い、壊れた兵から続々と入ってくる義和団を、日本刀一閃、次々に眠らせて英国人女性から絶賛を浴びた安藤大尉も、その戦いの奥義は、斉藤一からの直伝だったのかもしれませんね。


明治二十五(1892)年、大蔵は、男爵に叙せられ、華族に列します。

しかし、この前年あたりから呼吸器系を患い、ついに明治三十一(1898)年三月、波瀾万丈の人生を終えます。

享年54歳でした。

 ↓クリックを↓
人気ブログランキング

Byakkotai
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

あいあい

No title
コロネル・柴の話は、頭の片隅にあったが、まさか会津っぽだとは思わなかった。 最近〝獅子の時代〟を全話見て、改めて会津を意識しだしました。 獅子の時代の登場人物は山川の分身たちですね。
話は変わりますが、連休中に会津へ行ってきました、震災後初めて福島へ行きました。 ある駅に会津っ子宣言というのが貼りだしてあって「卑怯なふるまいはいたしません」・・・・これで心が鷲掴みにされちゃいました。 

読者のひとり

山川浩は本当に立派な方です。これほどの人材が、要所要所で日本の歴史ではたくさん輩出されます。神の国ならではです。
谷干城も山崎闇齋門下の谷秦山の子孫で素晴らしい方です。

日本がんばれ!

No title
福島県人の逞しさ、粘り強さ、頑張り・・・素晴らしい先人の存在に感動しました。
今回の大震災・原発事故に負けず元の福島にもどそぉ~!!

愛信

中国、死刑減少で臓器売買増える 仲介者が巨額の利益
中国、死刑減少で臓器売買増える 仲介者が巨額の利益

http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050601000968.html

6日付の中国紙、北京晨報によると、中国が死刑執行を減少させた
2007年以降、移植臓器の供給不足が深刻化し、闇の臓器市場で
の売買が増加している。

臓器移植法改正案で闇市場が形成される、公明党が力を入れた
中国臓器売買闇市場が拡大

【臓器移植法改正案関係の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj11.cgi
【臓器移植法改正案タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

灯理

じゃあ
次回は牟田口廉也でwwwww

テーマは「どうしてインパール作戦は実行されたのか?」「この作戦で多くの兵力を失った日本軍の参謀能力やいかに?」v-221

ジャギ様

福島県民の反骨精神
 住所目録を見ると東北、特に福島の地名表示の多さは異常です。(郵便番号検索でも分かります。)
 明治政府に、「難治の民」であることを印象づけるかのごとく色々逆らったのかもしれません。
 そういえばいまだに、鹿児島出身の婿は認めない風潮もあったような。

 しかし、私の身近に知る福島県民は武張ったところもなく、むしろ依存心の強い印象を受けます。
 人それぞれといったところでしょうか。

-

【厳喜に訊け!】危険極まりない「国会法改悪」[桜H22/5/5]
http://www.youtube.com/watch?v=hUT9UoiI__w&feature=channel
SakuraSoTV — 2010年05月05日 — 外国人参政権や夫婦別姓など、次々に日本解体法案を進める民主党であるが、彼らはそのイデオロギーを隠した手法で悪法を大量生産しようとしている。その手段が「国会法改正」である。さながら中国共産党のような党優位で、憲法秩序や法体系を無視した法案を進めようとしている民主党の謀略について警鐘を鳴らしておきます。

-

誰も知らない海保船追跡の根拠
マスコミはなぜか報道しませんが、“「中国の調査船がこの海域で法執行活動を展開するのは完全に正当で合法だ」”という根拠は、中国が平成4年2月に施行した「中華人民共和国領海及び接続水域に関する法律」を指します……
http://sakura-makkiy.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d401.html

-

二重国籍法案
……するとあの莫大なる財力の御曹司は私たちがイメージする金持ちの世間知らずの意気地なしなんかではなくて、れっきとしたアナーキストだと分かります。無政府主義です……
http://politiceconomy.blog28.fc2.com/blog-entry-450.html

大和撫子

ねずきち様こんにちは!はじめまして
ねずきち様 大和魂の素晴らしさに感無量です。

こんなに素晴らしい日本民族、日本文化を中韓になんか渡せないですね。

日本企業や国民や官僚、そして敗戦戦後も日本を守ってくださった、愛国政治家のご苦労の成果が、ミンスに売国されている現状が腹立たしいです。
宮崎の口蹄疫は私の故郷、熊本に到着したとの情報が入りました。
日本の畜産はどうなってしまうのでしょう。

一有権者

No title
会津の方達の精神を我々日本人は思い起こし見ならわねばいけないと思いました。

多分この時代の日本人は薩長であれ朝敵の扱いを受けた奥羽越列藩同盟の諸藩であっても同じだったでしょう。

幕末から維新に至るまでの日本国が非常に不安定で
ひとつ舵取りを間違えば欧米列強の植民地にされるところを良く先人の皆様は耐えて独立を勝ち取ってくださいました。当時の有色民族の独立国は日本以外植民地の緩衝地帯として残されたタイ王国以外なかったのです。

そのようにして守ってくださった日本国の独立をやすやすと中韓に渡してなるもんかと闘志が湧いてきます。

左近尉

No title
何百町歩の大地主の倅のくせに
アルバイトで自活していたのが
会津ッポ

学生時代の友人です。

親日本プロレス

会津藩
東北出の自分は、北国の人々の、真面目さ、真っ直ぐさ、家族、地域、国をおもう心を、少なからず受け継いでいるんだな・・と最近思う事が有ります、若い頃は全然だったのに、年ですかね。
非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

スポンサードリンク

カレンダー

05 | 2021/06 | 07
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
テーマは、ご自由に設定いただいて結構です。
講演時間は90分が基準ですが、会場のご都合に合わせます。
E-mail nezu3344@gmail.com

電話  080-4358-3739

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク