サイパンの玉砕戦(2)



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バンザイクリフの両陛下
バンザイクリフの両陛下


※昨日からの続き

なんとかしてサイパン島で戦う兵士達、および被災している民間人たちを助けようと、東条英機首相は、米艦隊の重包囲をおして救援を差し向けようと聯合艦隊に命じ、「あ号作戦発動」を発令します。
なんとしてでも、救援を差し向けようとしたのです。

けれど作戦のために出撃した日本側機動部隊は、マリアナ沖で敵の物量の前に大敗を喫し、18日から19日にかけてのたった2日間で、艦載機400機を失うという大損害を招きます。
そして帝国海軍航空部隊はこれによって完全に制空権を失ってしまう。

こうしてサイパンにいた3万の日本軍は、開戦から9日目の6月24日の時点では、重傷者ばかり、わずか6000名が残るのみという状況になってしまいます。
守備隊の斎藤義次陸軍中将は、ここで海岸防備体制から、作戦指揮を籠城戦に切り替え、島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷きます。
洞窟を利用した抵抗戦に切り替えたのです。

この斎藤中将の作戦指揮は、大本営の当初の指揮とはまるで異なるのものでしたが、サイパンにおいて、この時点でもっとも有効な防衛手段となりました。
山岳地帯に籠城して戦う日本軍の前に、米軍のサイパン島攻略隊は、20日以降、まるで進撃が進まず、死傷者ばかりが続発するという事態になってしまったのです。

この米軍の戦闘の模様は、ジャーナリスト達によって、逐一米国本土で報道されていました。
その結果、米国本土では世論が沸きたち、大部隊によって「楽勝」だと宣伝していた米軍に対し、世論の非難が集中します。
このため米軍は、攻撃手であった第27師団長のラルフ・スミス少将を更迭しています。

この時点で、日本側に残っていた兵力は、わずか6千名です。
しかも、食べるものさえろくになく、弾薬も乏しい。
加えて、普通なら瀕死の重傷患者として病院のICUで絶対安静を言い渡されるくらいの状態になっている兵隊さんたちです。
それがうなるほどの火力を備え、日本の11倍の大兵力を持ち、空と海からも援軍を得ていた米軍上陸部隊に対して、島中央部で互角の戦を行ったのです。
島の守備隊の敢闘精神や、讃えるべしです。

しかし3日間の激しい戦いの末、空爆によって防衛ラインを破壊され、火炎放射機によって洞窟を焼かれた日本は、6月27日には、ついにタッポーチョ山を米軍に占領され、島の北側にあるサイパン最大の街、ガラパン市街に逃れる他なくなります。

ガラパンは、市街です。
民間人が多数います。
民間の施設もあれば、中立的医療施設もある場所です。

こうした市街戦を行う際は、本来なら、ここでも民間人の避難のための警告と避難のための時間を充分与えること・・・それがハーグ陸戦条約に定められた国際ルールです。
けれど米軍は、容赦なくガラパン市街を空襲し、艦砲を撃ち込み、陸戦隊によって銃撃を加えました。

このため2万人の民間人がいるガラパン市街では、必死で民間人を守ろうとする日本軍と、民間人、軍人の区別なく容赦ない攻撃を加える米軍との間で、6月28日からなんと5日間にわたる激戦が繰り広げられることになります。

そのガラパンもついに墜ち、日本軍と民間人たちがついにサイパン島最北部にあるマッピ岬まで逃れました。
しかしその時点になっても、ガラパンの街の中の倒壊した家屋の中には、多数の日本兵が隠れ、陸続と侵攻してくる米軍を撃ち、手榴弾を投げ、銃剣で刺し、米兵をその場に釘付けにしていました。

ここで、サイパンにいた民間人について触れておきます。
「米軍迫る」との情報に基づいて、実はサイパンでは、軍が事前に民間人の疎開を勧奨していたのです。米軍が来る前に、なんとかして民間人を先に避難させようとしていました。

このため、サイパン戦がはじまる前の3月3日に、「あめりか丸」と「さんとす丸」、5月31日には「千代丸」が島民を満載して出港しています。

ところがこの船は、疎開用の非武装船の旗を掲げていたにもかかわらず、米軍の潜水艦によって撃沈されてしまうのです。
あっというまの沈没です。
乗員は全員、行方不明(死亡)しています。

そんな状況のもとでは、どうせ死ぬくらいなら、兵隊さんと一緒に島に残って、なんでもいいからお手伝いしよう。
そう思うのが人情というものです。

実際、島に残留した民間人2万人の日本人は、最後まで日本軍を信じ、ガラパンを失ったあとも、日本兵について島北部にあるマッピ岬まで逃れてきていました。
一方で、米軍に拿捕された民間人も多数います。

その人たちについて、サイパンの戦いに従軍した田中徳祐陸軍大尉(独立混成第四七旅団)が、次の目撃談を残しています。

~~~~~~~~~~~~~~
米軍は、拡声器をいくつもすえつけ、一日中、「米軍は虐待しません。米軍によってよい待遇が受けられます。みなさん投降してください」と呼びかけた。
しかし、その呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子は、全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。
「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

滑走路に集った老人と子供の周りにはガソリンがまかれ、火がつけられた。
たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した滑走路。
我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた。
火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。

二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士。

こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに裸にされて股から串さしにされた婦人を見た。
自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が、五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
~~~~~~~~~~~~~~~

結局、日本側は、この時点で生き残った少数の兵隊さんと、2万人の民間人が、マッピ岬のある島の北端に押しこめられました。

洞窟の外では、米軍の砲弾が炸裂し、走り回る戦車のキャタピラ音、機銃の掃射音、火炎放射機の焦げた油の臭い等で、この世のものとは思えぬ惨状がくりひろげられています。
逃げのびる日本兵と民間人たちには、女子供老人の区別なく、水も食べ物もない飢えとの戦いが何日も続いています。

7月6日、日本軍最期のときを迎えて、南雲中将、斉藤中将以下陸海軍の最高首脳は地獄谷と呼ばれる司令部壕内で、敗戦の責任をとって、自決します。

このときの模様です。
南雲海軍中将は、次のように訓示を行いました。

=======
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ。
米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり。
然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず。

人の和を以って今日に及び、
今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る。
無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり。

サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死。
死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す。

余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
=======

このときに立会った陸軍参謀によれば、7月6日午後10時、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲忠一海軍中将が右に、井桁敬治陸軍少将が左に正座し、日本の方角を向いて宮城遥拝を行ったあと、割腹。
同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃ったとのことです。
南雲中将が、腹に刃を突き立て、斬り割いているとき、副官は「よろしうございますか」と声をかけたそうです。
南雲中将は、従容として「どうぞ」と答えられたといいます。
斎藤陸軍中将がこのとき32歳、南雲海軍中将が享年57歳でした。

陸海二人の将官を失った守備隊本部から、この日2つの命令書が出されました。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されています。

~~~~~~~~~~~~~
【命令書1】

今や止まるも死。進むも死。
人の死生はすべからく、その時を得て、帝国男児として本懐なり。
今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。

戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。
勇躍全力を尽くして従容として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし。
ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念しつつ敵を索め進発す。続け。

【命令書2】

サイパン守備隊は先に訓示せるところに随い、
明日7日、米鬼をもとめて攻勢に前進し、
一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす。

~~~~~~~~~~~~~

この命令書は、南雲中将、斉藤中将の起草のように言われますが、ちがうと思う。

おそらく、ふたりの尊敬すべき最高首脳の自害に立ち会った副官が、壮絶な覚悟のもとに玉砕戦を呼び掛けたというのが実際のところでしょう。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されていきます。
玉砕命令は口伝えに生き残りの将兵に伝えられました。

7月7日、マッピ岬から約5キロ南方のマタンシャに集結したのは、静岡・名古屋・岐阜で編成された第四三師団を中心とした3000名です。

一説によれば、この時点で生きていた日本の将兵は1万人程度だったともいいますが、片手片足がなくなっていても、とりあえずこの時点で歩行が可能だった、もしくは「動ける」者が、約3000名だったといういうことであろうと思われます。

サイパン戦に終始従事した加賀学氏は、当時の様子を次のように振り返っています。

~~~~~~~~~~~~~~~

大半は何のための集合かも知らず、
「ガラパンに友軍が上陸するから、北方からも進撃する」とか
「玉砕突撃だ」
「ガラパン奪回だ」とかささやかれていた。
そうして集まった“最後の兵”たちも、小銃を持つ者は少なく、特科兵(大砲や戦車などの兵)や軍属は竹竿や木の枝に鉄棒や帯剣を付けた槍を持ち、素手の者は手榴弾を吊っているのみというありさまだった。

~~~~~~~~~~~~~~

3000名は、三つのグループに分かれ、それぞれ生き残りの佐官クラス(少佐、中佐、大佐)が指揮し、ガラパンのアメリカ軍陣地へ向けて突撃しました。
指揮官の一人だった平櫛孝氏(第四三師団参謀、中佐)は次のように書いています。

~~~~~~~~~~~~~~

7月7日午前3時30分を期し、ワーッと喚声をあげて米軍に向かって突進した。
私とともに山際を進む者は約千名。
小銃を持たぬ兵もいる。
この突撃は、はじめからその効果を期待しない突撃だ。
世によく「万歳突撃」というが、そんな浅薄なものではない。
アメリカ側は“狂気”というが、むしろそれに近い。
しかし、病的な狂気ではない。
十分に己れをコントロールして、誰からも強いられたものではない「狂気のごとくみえる本心」からの行動である。
したがって突撃前進の姿勢も大きい。
敵との距離が150メートルにせまっても誰も伏せもしない。
アメリカ側でも、この戦闘の基本動作以前の突撃に面食らったのか、たちまち今までの静寂を破って、赤、白、緑、黄の曳光弾とともに機関銃をアメあられと撃ちこんできた。

(「第四十三師団サイパン玉砕戦」所収)

~~~~~~~~~~~~

この突撃を目の当たりにした米国人ジャーナリストのロバート・シャーロッドは、このときの模様を次のように書いています。

~~~~~~~~~~~~

この日本軍の大逆襲がおわったとき、山と重なった日本兵の死体は、タラワ島の玉砕戦の場合よりもさらに密度が高かった。
すなわち、幅300メートル、長さ約2000メートル足らずの場所に、およそ2000名の日本兵の死体が横たわっていたのだ。
そしてある場所では、これらの死体は四段に高くかさなりあっていた。
私の推測では、四人のうち一人の割合で自殺をとげていた。
そしてここでも、自殺の証拠は右手と胸部が吹飛ばされて、死体からなくなっていることであった。
鉄道の土手の反対側には、少なくとも40名の日本兵の死体が、これまた地上に横たわっていた。
しかし、その付近に小さな家があり、その床下にはさらに何人かの日本兵の死体があった。
私は死体の数を6個まで数えたが、たぶんそこには1ダースぐらいあったであろう。
私の見たこれらの死体は全部、自決したものであって、いずれも自分の手投げ弾によって、その右手はもぎ取られ、胸部または首は吹きとんでしまっていた。

~~~~~~~~~~~~~

一方、マッピ岬に取り残された民間人は、岬からつぎつぎに身を投げて自決しました。
あるいは断崖を降りて円陣を組み、手榴弾で集団自決しました。
ある者は幼子を抱えて入水して命を絶ちました。

日本民間人の玉砕のもようは、米軍の目前でくりひろげられています。
マッピ岬は、後にバンザイ・クリフと呼ばれるようになりますが、このとき、岬から身を投げた民間人は、最低でも8000人だったといいます。

ここでひとつ重要なことを書いておかなければなりません。
このバンザイ・クリフで日本人の婦女たちが投身自殺する模様は、映像となって、毎年8月15日の終戦記念日頃になると、繰り返しテレビで放映されています。

その映像の原盤をみると、撮影している米人たちが、まるで娯楽映画を楽しむように、その人が次々と投身自殺をしていく光景をみて、歓声をあげている音声がはいっています。



制止するべきではありませんか?


言葉が通じなかったとしても、その崖に銃弾でも撃ち込めば、婦女たちは崖から飛び込むことをあきらめたとは考えられませんか?

なぜ日本人が、そこまでして戦ったのか。
どうして民間人女性たちが、投身自殺をしたのか。
この一点をもっても、当時の様子が理解できようと思います。

サイパンの戦いで玉砕した日本軍は41,244名です。
そして重症のため、米軍に捕獲され、捕虜となったのが、2438名。
米軍の死傷者は、公称で、戦死3441人、負傷11,465人です。

ただし、米軍に初日の死傷者はこの数に含まれていません。
また、戦傷して病院に担ぎ込まれたあとに死亡した者は戦傷者としてカウント、治療のあと隊に復帰した者は戦傷者に含まれていません。
従って、死傷者の数は、おそらくは1万5000〜2万人であったろうと思われます。

戦争は悲惨なものです。
絶対に繰り返してはなりません。

しかし、だからといって、軍備そのものまでなくていいということにはなりません。
それは理不尽を認めることになるからです。
日本に原子爆弾が落とされたのは、その時点で「絶対に日本から報復される惧れがなかったから」です。
そういうものなのです。

サイパンで、民間人の婦女子や老人、子供が、ひどい目に遭わされました。
それは、最早その時点の日本側守備隊、あるいは日本本国から、報復の惧れがまったくなかったからです。

もしサイパン戦の時点で、日本に強大な軍事力が保持され、米本国への報復力があったならば、米軍は民間人の家屋への爆撃や艦砲射撃ができません。
なぜなら報復の恐怖があるからです。
そういう微妙なバランスが、悲しいことですが、人類の平和を微妙に維持しています。

「ボクはケンカはしません」ということは、立派な心がけです。
しかし、だからといって体を鍛え、何ものにも負けない強い体と心を鍛えることを怠ったら、万一のときにあなどられるだけです。

国家でもおなじことです。
スイスは永世中立を宣言しているから責められないのではありません。
万一の場合、スイス人全員が最後のひとりまで武器を持って戦うとしているから、そんなヤバイところを誰も責めようとは思わない。

サイパン戦は、悲惨な戦いでした。
しかし、悲惨だからといって、そこから目をそむけるのでなく、二度とそのような悲惨が起こらないよう、平素から120%の準備を怠らないというのが、本来の国家のあるべき姿です。

軍備を持つからイケナイのではありません。
武器を用いて威嚇して他人に言うことを聞かせようとする無法者が現にいるから、日ごろから備えを充分にして、武器を持っている無法者達にすきなようにさせないということが大事なのです。

自分の国は自分で守る。
そのための強い心と具体的備えを取り戻す。
それこそが、日本を取り戻す、ということだと私は思います。

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サイパン島玉砕 5


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コメント

アロン

No title
おはようございます。

お恥ずかしい、年号と西暦がずれていました。
宜しければ前の投稿文は削除してください。

以下が訂正文です、あと長島厚氏と武田光雄氏を追加します。

ぽこ #QAt7aVcwさん

田中徳祐氏については、よく存じ上げないのでわかりませんが、
24歳で大尉というのはありますよ。
4人の元軍人を紹介したいと思います。

大正十一年(1922)生まれの原田重穂氏は、
陸士54期生で、任官後、第15師団・第67連隊に配属されます。
その後、なんと21歳で中尉に任官しています。
その理由は二つあります。


1
原田氏の誕生月は1月、つまり早生まれです。

2
陸士は旧制中学4年から受験でき、
合格すれば1年飛び級で入校できる制度があったこと。

というわけで、他の新任中尉より2歳近くも若かったのです。
その後、大尉に任官して昭和20年時には第18師団麾下の
大隊長としてビルマ戦線で勇戦しておられます。
堂々たる23歳の立派な大尉です。


次です。
大正十年(1921)生まれで、元陸軍大尉であり、
陸自二等陸佐でもあった、矢作武二氏は、
昭和19年時、23歳で大尉であり、
近衛3第師団・近衛第10連隊の第2大隊長でした。

氏が属する近衛3第師は、米軍の関東上陸に
備えて九十九里浜一帯に陣地を構築し、まさにマッカーサーが
計画していた進撃路に、総延長20キロ、軽機関銃から
重砲までも備えた東金地下陣地を築城しました。

東金陣地は本来、一個連隊分(2000〜3000前後)の収容人員でしたが、
実際は、それを上回る人員を収容できるようになっていました。

そのエピソードを。
当時、一本義郎近衛第10連隊長は地元住人に神経を払い、
村長さんたちと、しばしば会合を開き、
陣地構築について理解を求めていました。
作業も迷惑をかけぬようにし、田畑も荒らさないようにし、
作戦上どうしても、家屋や畑の立ち退きが必要なときは、
実施ギリギリまで待ったそうです。

そのおかげで、地元とは非常に良好な関係であり、
築城から食糧生産までよく協力してくれたといいます。

将兵が「米軍が上陸したらどうするのか?」と尋ねると
「兵隊さんと一緒に戦う」との答えが帰ってきたといいます。
そこで近衛第10連隊の独自の判断で、地元住民を収容できるように、
設計に余裕を持たせたために、連隊以上の人員が
籠もれるようになったということです。
まさに軍民一致でした。




大正十年(1921)生まれの元陸軍大尉、
戦後は海上自衛隊、一佐で退官という
面白い経歴の長島厚氏です。


この方は有名なので説明もいらないでしょう。
第91師団・占守島の軍使としてソ連軍司令部に赴かれました。
ねずさんの記事にも、この戦いの記事がありますね。

階級のことですが23歳(7月生)の昭和19年10月に、
長島氏は大尉に昇進しています。



大正九年(1920)生まれの海軍大尉の
武田光雄氏も25歳です。
海軍兵学校70期生。

重巡青葉乗り組み、グァム島攻略、珊瑚海海戦、
第一次ソロモン、サボ島沖海戦に参加(この戦いで負傷)
昭18年 空母隼鷹乗り組み。
昭19年 駆逐艦濱風に転属、マリアナ沖海戦、比島沖の戦い
昭20年 大和以下の沖縄突入作戦。

駆逐艦時代は数多くの海に漂う生存者の救出作戦に参加。
その中には、レイテ沖海戦で沈没した武蔵の乗員1367名を
僚艦清霜とともに、海戦の熱も冷めない危険な海域で
6時間をかけて救出。

昭和20年の戦いでは自身が漂流者の身となり、
漂うこと5時間、生き抜かれて救助されました。

また光雄氏の祖父である武田秀雄氏は海軍機関中将であり、
父の豊田貞次郎氏は海軍大将という海の家系です。


サボ島で青葉の艦橋に敵砲弾命中、敵砲弾の破片は
武田氏の左脚の脛骨を砕き貫通、、もうひとつの破片は
太腿に残り血がドクドクと流れ出る。
しかし、負傷のことより航海士としてやらなければ
ならぬことはたくさんあり、そのことばかりを
考えていたそうです。
体内に残っていた破片は、マッチ箱ほどの大きさであったとか。

艦橋は、まさに修羅場で五藤司令官も瀕死、多くの人員が戦死、
負傷、このままでは艦の行動もままなりません。

先任参謀の貴島中佐の艦橋に駆け上がり、
瀕死の司令官に「司令官 反転して再挙を図ります!」
この貴島参謀の大声で、混乱、茫然自失としていた乗組員たち
は我に返ったといいます。
参謀は航海士の武田少尉(当時)に反転針路を訪ねます。
少尉は針路を計算して「針路310度!!」と答えます。

武田氏は、あの時の貴島参謀は即座に状況を判断し、
とにかく今は、反転すべしとの決断を下した参謀は
優れた軍人と述懐しています。
氏もまた、航海士お役にたてたとの思いと、
重傷の身であったので、交代の少尉を寄越してくれたところで、
安心したのか、意識が遠くなり気を失ったそうです。


武田氏は負傷した昭和17年10月から一年ほど
療養していましたが、その時に習字の勉強を兼ねて、
観音経の写経に専念します。、
完成した一部を浅草寺に奉納して、
ソロモン方面の海戦で戦死した多くの日米の戦士たちの
回向をしてもらったといいます。


強い責任感・武士道も備えた海軍の猛者です。


また青葉、隼鷹、濱風の艦長は、いずれも尊敬できる
方たちばかりだったそうです。
在りし日の日本人、海軍軍人を知る一端にもなるので、
掲載したいと思います。

空母隼鷹の長井満艦長の人柄。
隼鷹では艦長主催の艦務会議があり分隊長以上が出席し、
そこで艦の運営方針が討議されていました。

武田氏曰く、
「この会議はとても民主的というか自由な雰囲気で、
階級の上下や年齢にこだわらず、とにかく皆にどんどん発言させる。
そして充分に意見を聞いた上で、即断即決で艦長が
議事を処理していきます。いかにも海軍的な合理主義と
自由な雰囲気に満ち、ここで学んださまざまなことは、
戦後の社会生活でも大変役に立ったと思います」


駆逐艦濱風の前川万衛艦長の人柄。

生存者の救出作戦時のお話です。

濱風での救出活動は、救命ボートをおろさない独特の
ものであったそうです。
まず艦を風上に持っていき、そこに停止。
すると艦は風当たりを受けて、じわりじわりと漂流者のほうへ
流されていく、そこで風下舷の艦首から艦尾までロープを垂らして、
ロープを掴んだ生存者を引っ張る方法だったそうです。

しかし、まとまった漂流者の時はいいが、一人や二人が
漂っているときは大変だったらしく、時間もすごく掛かります。
しかも救助中は艦は停止しているので、
敵潜水艦から見たら格好の的です。

あるとき武田氏は、遅々として進まない作業と、
敵の動静の不安から、艦長に対して意見具申します。
「小の虫を殺して大の虫を生かす という諺があります
このあたりで救助を切り上げてはいかがでしょう?」

艦長は武田氏の顔をじっと眺めると、静かにこう言われたそうです。
「ここに泳いでいる人達は、我々が助けねば誰も
助けてくれないだろう。それははっきりしている。
だが我々が救助の中で敵の攻撃を受けるかは
【運】だ。  だったら最後の一人まで助けようではないか。」

武田氏は艦長の言葉を聞いて胸を打たれたそうです。
「艦長のこの言葉を聞いてからは、もう迷いがなくなりました。
こちらも死ぬ気でやれば、多くの人を助けることができる。
どれだけ時間がかかっても、全員救おうじゃないかという気分に
なっていったのです」

身内が海上自衛隊にいるのですが、やはり彼も古株の隊員やOBたちから
昔ゴロゴロいた海軍上がりの隊員の伝説的ともいえる話を
聞かされるらしく、猥談から感動的な話に至るまで、
とにかく聞いていてスカッとするようなスケールの
デッカイ人たちが多かったようですね。
こういう人たちが日本海軍を支えていたのでしょう。

アロン

No title
ぽこ #QAt7aVcwさん

田中徳祐氏については、よく存じ上げないのでわかりませんが、
24歳で大尉というのはありますよ。
お二人を紹介したいと思います。

大正十一年(1921)生まれの原田重穂氏は、
陸士54期生で、任官後、第15師団・第67連隊に配属されます。
その後、なんと21歳で中尉に任官しています。
その理由は二つあります。

1
原田氏の誕生月は1月、つまり早生まれです。

2
陸士は旧制中学4年から受験でき、
合格すれば1年飛び級で入校できる制度があったこと。

というわけで、他の新任中尉より2歳近くも若かったのです。
その後、大尉に任官して昭和20年時には第18師団麾下の
大隊長としてビルマ戦線で勇戦しておられます。
堂々たる24歳の立派な大尉です。


次です。
大正十年(1920)生まれで、元陸軍大尉であり、
陸自二等陸佐でもあった、矢作武二氏は、
昭和19年時、24歳で大尉であり、
近衛3師団・近衛第10連隊の第2大隊長でした。

氏が属する近衛3師は、米軍の関東上陸に
備えて九十九里浜一帯に陣地を構築し、まさにマッカーサーが
計画していた進撃路に、総延長20キロ、軽機関銃から
重砲までも備えた東金地下陣地を築城しました。

東金陣地は本来、一個連隊分(2000〜3000前後)の収容人員でしたが、
実際は、それを上回る人員を収容できるようになっていました。

そのエピソードを。
当時、一本義郎近衛第10連隊長は地元住人に神経を払い、
村長さんたちと、しばしば会合を開き、
陣地構築について理解を求めていました。
作業も迷惑をかけぬようにし、田畑も荒らさないようにし、
作戦上どうしても、家屋や畑の立ち退きが必要なときは、
実施ギリギリまで待ったそうです。

そのおかげで、地元とは非常に良好な関係であり、
築城から食糧生産までよく協力してくれたといいます。

将兵が「米軍が上陸したらどうするのか?」と尋ねると
「兵隊さんと一緒に戦う」との答えが帰ってきたといいます。
そこで近衛第10連隊の独自の判断で、地元住民を収容できるように、
設計に余裕を持たせたために、連隊以上の人員が
籠もれるようになったということです。
まさに軍民一致でした。

ぽこ

No title
田中徳祐氏の階級が大尉なのはおかしくありませんか?
田中は1920年生まれなので24歳で大尉になるというのはあり得ないように思えます。
昭和天皇の弟の宮三宮(秩父高松三笠)ですら大尉任官27前後です。

トラ

ドキュメントフィルム
タッピ岬 (万歳クリフ) 揚げ髪に、もんぺ柄のねんねこ伴天、両手を後ろに廻し、子供を抱くように垂直に飛び降りる。

一瞬でしたが観念して、静かに落ちて逝った。

同画面に、痩せた60代の男性、そして女性も、遠くに何人かが落ちて逝く。

万歳の姿勢の人も、でも誰一人悲鳴の様な様子はありませんでした。

実録フィルムで脳裏に焼きついて、事あるごとに思い出します。

日本は、完全な軍備、軍人を持たなければ同じことは繰り返される、祖国を想い覚悟を決めて逝った同胞を犬死と、させては申し訳が起ちません。

『自分の国は、自分達の手で守る。帰化人には出来ません』 当たり前のことで、当たり前に戻らなきゃならない。

週末 ポスティング

簡単には負けなかった日本の軍人
サイパン玉砕後、狭い同島で16ヶ月にわたり米軍とゲリラ戦で同等に渡り合った「大場栄大尉」以下数十人の日本軍人がいます。

投降したのは、終戦後の12月1日。軍装検査のあと、日の丸を掲げ軍歌を合唱しつつ、米軍と接触、降伏の署名をした。

詳しいことはサイパン戦に参加、その後国務省報道担当官として来日した、
ドン ジョーンズ氏の著書を。

「タッポーチョ」(敵ながら天晴れ大場隊の勇戦512日)
昭和57年 詳伝社発行

本書を、自らの国のために全力を尽くし、報われることのなかった現代の日本人の親たち、祖父たち、伯父たちにささげる。-----ドン ジョーンズ

敢闘軍

神風は吹いた☆
【皇室】両陛下、神奈川で戦没・殉職船員追悼式に出席 新首相の任命式のため一時帰京へ

昭和20年6月5日、沖縄海域でアメリカ海軍ハルゼー第5艦隊は時ならぬ台風に襲われ大損害を被った。
戦艦インディアナ大破、マサチューセッツ、アラバマ、ミズーリー損傷
空母ホーネット、ベニントン大破、軽空母ベローウッド、サンハーシント損傷
護衛空母アッツ、ウィンダムベイ、サラモア、ブーゲンビル損傷
重巡洋艦ピッツバーグ、ボルチモア大破、クインシー損傷、軽巡洋艦ダルース大破、デトロイト、サンジュアン、アトランタ損傷
駆逐艦ブルー大破、シュローダー以下13隻損傷、給油艦ラッカワンナ、ミリコーマ損傷
航空機142機喪失

負け犬マスゴミ(∩@д@)ァーァー キコエナーイ!

 ァ   ∧_∧ ァ,、
 ,、'` ( ´∀`) ,、'` ヤハリ♪日本は神の国です!
  '`  ( ⊃ ⊂)  '`

-

No title
黙祷をささげられている両陛下のお背中に、こちらも思わず頭が下がり亡くなった方のご冥福を思いました。

空蝉

No title
マジで鬼畜米英だったんですね…
戦争が好きだなんて自称平和を愛する人だけじゃないですか?
自分も酷い目に遭うと分かっているから、戦争大好きなんて言う人は見たことないですし、私も絶対嫌です

愛信

【「種牛の殺処分、慎重に」国連機関の主席獣医官】
【「種牛の殺処分、慎重に」国連機関の主席獣医官】
http://ariesgirl.exblog.jp/d2010-05-29

理由について同氏は「殺処分は感染の初期段階では非常に効果的だが、
拡大した今は長期的な視野を持つ必要がある」と説明。
「殺処分は(畜産)資源に大きな損失をもたらすとも語った。

殺処分の不要の種牛を殺せと脅迫して、宮崎畜産業界の自民党支持農
家を徹底的に叩き潰す民主党小沢幹事長配下の会議に呼ばれた4団体
日本酪農政治連盟、全国肉牛事業協同組合、日本養豚生産者協議会、
日本鶏卵生産者協会。


【マスコミ隠蔽の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
【マスコミ隠蔽のタイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

ブログランキング【ブロブロ】

No title
突然のコメント失礼致します。


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弟橘姫命(オトタチバナヒメノミコト)
「人のために自分の生命を捨てるという行為をする人間が現れたとき、人類の歴史における道徳的進歩は最高の立場に達する」
ヤコブ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt)

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不道徳
今の民主党政権。たった一言で言い表すことが出来ます。

不道徳なんです。

まさしく、不道徳な政権なんです

http://muumintani-irasyai.blog.so-net.ne.jp/2010-04-13-2

桜花

乾坤一擲

昔から貴殿のブログを勝手にしばしば拝見させていただいている者で御座います。貴殿の卓越した表現力と文面能力には毎度ながら恐れ入ります。
私も先の大戦の各戦線での兵士達の体験記から戦術・戦略・戦闘内容戦闘体験記などを読んできたつもりでしたが、今回、貴殿が挙げられたサイパン玉砕戦は既存に出回っているサイパン島関連の本の攻防戦には負けず劣らずの迫力ある文章力と優れたバランス感覚をお持ちになり貴殿自身のアイデンティティには畏敬の念すら感じます。

今回のサイパン玉砕戦の二つの記事を読ませていただき、私は涙ぐみ申しました。
これからも様々な事象を考察し続けていただき、貴殿の我々ファン達にジャンルを問わず様々な事柄を御教授願い申し上げます。
誠に勝手ながら、貴殿の更なる御活躍を期待しております。
追伸:これだけ素晴らしい能力をお持ちならばノンフィクション作家の道を歩まれてみては如何でありましょうか?

紅のシラサギ

No title
奴らは「軍人の任務」を言い訳に
大好きな虐殺を行ってるモンスターですね。
いやモンスター以下か……

敢闘軍

日本精神は不滅なり
■三島由紀夫の社会学
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1213956170/

なかなか真面目な内容で役に立つスレッドです。

■サイパン・テニアンが陥落してからも
日本軍は航空部隊による攻撃を続け、
硫黄島から出撃した『神風特攻第一御楯隊』
などはB‐29に相当な損害を与えている。

ちなみに、対日戦におけるB‐29の損害は、
喪失513機、損傷2707機でこの内約2千機余は、
硫黄島に不時着しなければ、太平洋に墜落していた。

愛信

【口蹄疫】農林水産相は「バカ松」 たちあがれ日本・平沼氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100529/stt1005292059011-n1.htm

たちあがれ日本の平沼赳夫代表は28日、都内
で行った街頭演説で、口蹄疫の被害拡大の原因
は赤松広隆農水相の外遊にあると指摘、「農水
相は名前は赤松という人だ。永田町ではバカ松
と言われている」と批判した。

錦糸町駅前・街頭演説会3 / たちあがれ日本 東京都選挙区 小倉 麻子
http://www.youtube.com/user/tachiagarenippon#p/u/1/j2cCvvpecoo
錦糸町駅前・街頭演説会4 / たちあがれ日本 平沼赳夫(代表)
http://www.youtube.com/user/tachiagarenippon#p/u/0/V5uaLcEjC08


【動画ニュース掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュースタイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

国防圏
国防圏をサイパンとして日本が心配していた通商航路の確保と米・豪・中への補給線の遮断は出来た筈なのですが、戦果ばかりを追い過ぎた日本軍にも責任はありました。
これを踏まえて日本の国防を考える、ミサイルの時代にも入ってる宇宙戦略も加味して真剣に取り組んでほしいものです。

-

徐々に浸透してる言葉 地球市民
テーマ:罠

海外でももちろん地球市民工作されてます。

地球市民=奴隷なんです。

地球市民ならみんなが受け入れやすいからです。

いいこと言ってるっぷりして実はちがう……
http://ameblo.jp/japanndayo/entry-10545419381.html#main

suna

感想とご連絡
実家が沖縄ですので、このお話は今、目前の現実として受け取りました。
早く売国政党から政権を取り上げないと本当に大変なことになります。

一つ連絡です。
「この時点で、サイパン守備隊で最も戦力がまとまっていたのは、」
の後の分の繋がりがおかしいようです。ご確認ください。

-

自分が生まれ育った日本が大好きです
最近、街頭でも講演でも、あるいは政治家さんとお話した際も、みんな「日本が大好きなんだなあ」とつくづく感じる瞬間が増えています。政治家が「自分が生まれ育った日本が大好きです」と、堂々と言える国にしたいです。
約1時間前 webから
mpjapan
三橋貴明
http://twitter.com/mpjapan/statuses/14998588761

-

No title
サイパンでの米軍の蛮行は教科書に載せるべき。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567

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